藍の空、薄く膜が張ったように広がる雲。鳥の羽ばたく音だけが静かに響く島の朝。動いている人影といえば牛乳の配達人かパン屋のおやじか。まだ島民の多くは夢の中。この島の端、崖の上に建つ一軒の小さな家の主もまた彼らと同じく静かに眠りについていた。
しんと静まり返った家の中。寝室をのぞけば華奢な体つきの女がすうすうと穏やかな寝息をたてて眠っている。
「ただいま」
眠る彼女に囁くように告げてシュライヤ・バスクードはベッドの隅に腰を下ろした。彼女の頬にかかる髪をそっとのけてその滑らかな肌に触れる。安穏と生きてきたらしいその髪は潮風に痛むでもなく艶やかで柔らかい。その反面ゆるゆると彼女の頬や髪で遊ぶ青年の手のひらにはいく筋かの傷跡が残っている。しばらくそうして彼女を眺めていたがやがて立ち上がるとシュライヤまだ夢の中にいる彼女を残してキッチンへと向かった。
カーテンの隙間から差し込んできた朝日を感じてゆっくりと瞼を開く。今日は洗濯日和のいい天気になるのかなァなんて考えながら彼女はもう一度シーツに包まった。二度寝ほど心地のいいものはないと怠惰な一日を始めようとしたとき、部屋の外から物音がした。食器棚のガラス戸が開く音と続いてお皿同士がぶつかるような音。一気に覚醒した頭に警戒の二文字がよぎったのもつかの間、寝室の扉が向こう側からゆっくりと押し開けられていくのを彼女は息をつめて見守ることしかできない。
「なんだよ起きてたのか。おはよう」
「へ? ……シュライヤくん!? なんで!」
青年の来訪に先ほどまでの警戒を解いたものの今度は慌てた様子で寝起きの髪をなんとか抑えようとじたばたしはじめる。それんな彼女の様子をみてシュライヤは楽しそうに笑った。
「なんでってそりゃあアンタが言ったんだろう? この家に帰って来いって。ご丁寧に鍵まで添えて手紙を送りつけてきたよなァ?」
朝日の漏れる窓辺に寄り窓を開けて外気を呼び込むとシュライヤは朝日を背にして彼女に意地悪な笑みを向けた。
「だって、っだって……もうどうしたらいいかわかんなくて」
ガスパーデの率いる海賊たちの消息と裏レースがらみの大捕り物に関する記事が新聞に載ったのはもう一年も前のこと。待てど暮らせどシュライヤからの知らせはなかった。そして海賊処刑人の名が人々の口に上ることもめっきり減っていた。
「だからって鍵を送ってくる奴があるかよ」
「……死んだなんて思いたくなかったの! ちゃんと生きてて……ちゃんと、戻ってきときに家に入れなかったらシュライヤ君が困るでしょ!」
それは彼女にとって一種の願掛けだった。届くともしれない手紙を彼に送った。あなたが帰るべきは暗い海の底なんかじゃない。わたしの家に帰ってきてほしいと鍵を同封した。
「だからちゃんと帰ってきただろ? ってあァもう泣くなよ」
シュライヤはやれやれと呆れたように頭かいて見せるけれど、その表情はやはりばつが悪いのか困ったような笑みを浮かべていた。ベッドのそばに近寄って膝をつくとシュライヤは彼女の顔をのぞきこむ。彼女が無意識に固く握りしめていた両の手に彼は自分の手を重ねてゆっくりとその緊張をほぐすように静かに語りかけた。
「大丈夫、もう大丈夫だから。ほらこっちみてみな」
彼の言葉に従って顔を上げると彼がニッと笑って言葉を紡ぐ。
「ただいま」
彼女が唇をぐっとかんでまたなにも言えずに涙と文句をこらえているらしい様子にシュライヤは困った女だと内心独り言ちてから彼女に向けて言葉を重ねる。
「なァただいまって言ったの聞こえたか? で、そしたらアンタはなんて言うんだっけ」
おどけた口調で尋ねるシュライヤを涙ににじんだ視界に収めて彼女はようやく口にする。
「おかえりなさい、シュライヤくん!」
シュライヤ・バスクードの帰宅
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