泣かないでくれ

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泣かないでくれ

 夜。肌寒い風が甲板を吹き抜けていく。風に流されていく煙の行方を目で追うと満月が静かに私たちを見守っていた。
「お待たせしてすみません」
「いやちょうど一服したかったところだ」
 煙草を振り示して答えたのはこの船の副船長、ベン・ベックマン。今夜わたしがこの人を呼び出したのは、告白をするためだった。
 実はこれまで何度も好意を伝えようとアプローチしてきた。なんならこの船のクルーでわたしの恋心を知らない人なんていないんじゃないかってくらい時にはからかわれもした。けれど彼はわたしがどんなアプローチをしても頭を撫でて優しく笑うだけだった。ちゃんと大人の女として見てとはっきり伝えたことも一度や二度じゃない。それなのに彼はいつも煙に巻くような言葉を並べて最後にはこの言葉の意味が分からないようじゃまだ子猫もいいところだとか言ってまともにとりあってくれたためしがない。それでもいつもわたしが呼び止めれば律儀にこちらに身体を向けてわたしが話し始めるのを待ってくれるからそれに甘えて諦めずに彼に好きの気持ちをぶつけ長いこと経つ。
 今夜もそんな毎日の延長線上でわたしはまた煙に巻かれるのを覚悟で彼に好きと伝えるべく夜の甲板に呼び出していた。
「副船長、好きです」
「そいつァ昨日も聞いたな」
「じゃあ今日のお返事を聞かせてください」
「おまえさんはそうやって何度も伝えてくれるが、その言葉の重みをおまえさんはよく考えたのか? よくある話じゃねェか。年上への憧れを恋と勘違いしちまうなんてのは。お嬢さんはその点よく考えたのかって聞いてんだ。その言葉のもつ重みをおまえさんは本当に理解して言ってるのか?」
 ベックマンは彼女のうなじを指先で撫でる。
「ひうっ」
「っはは! この程度でそんな反応しちまうのか。本当に心配になっちまうなァ」
「またはぐらかして!」
「まったくそこら辺の男に簡単に落ちちまいそうで心配だ」
「おちません! わたしは副船長一筋です!」
「あァ? ほらみろ分かっちゃいねェ」
 ベックマンはそう呟くと二本目の煙草に火をつけて夜空を見上げる。
「今日こそちゃんとした返事をください。はぐらかさないで」
 視線を女へと戻すとベックマンは言う。
「おれのような男のどこにそう拘るのか。分からねェな」
「誠実なところですよ」
「陸に上がれば朝帰りばかりするような男がか? そういうのは普通不誠実だと詰るもんだ」
「いっそ誠実だと思いますよ。どこの女に対しても同じやさしさをみせてるんですから。勘違いさせないようにしてくれる」
「本当にどこの女に対しても同じだと思うのか」
 片眉をあげて問いかけるベックマンに、これを言うべきかどうか一瞬悩んでからためらいがちに口を開く。
「そうですね、わたしには違いますね。いつもはぐらかしばっかりでシてもくれないし。でもいつもわたしの告白をちゃんと最後まで聞いてくれるところはやっぱり誠実です。それにはっきり断らないでいつまでも好きと言わせてくれるのはやっぱり優しいですよ」
 言っていてすこし泣きそうになる。いつかはっきり断られる日が来るのかもしれない。
「やさしい、ねェ」
 ベックマンは溜息をつくとまだ短い煙草を握りつぶした。
「なら今回も答えはなしでいいだろう?」
「傷でもいいから、あなたから何かを残されたいんですよ」
 思わずこぼれそうな涙を無理に笑ってごまかそうとしたその顔をベックマンは哀れに思う。十分傷ついているくせにまだ傷をつけろと言う可愛い妹分。正直長いこと揺らいでいた心がここにきてもういいじゃないか海賊なら自由にやれよとさながらお頭のようなことを囁いていた。
「おれは臆病で軟弱な男だぜ?」
「どこがですか、勇猛果敢で屈強な男の間違いでは?」
「ひとりの自由な女を囲っちまうのが怖くてずっと答えを先延ばしにしてきたような男だ。それでもか」
 なかば諦めたようにベックマンは言葉を続ける。
「誠実さも優しさもねェよ。ただおまえに好きだと言われるのがずっと心地よかった。答えを先伸ばしにしてもいつまでも好きでいてくれるおまえに甘えていたのさ」
「それはつまり」
「子猫ちゃんには難しかったか? おまえさんが泣くからどうでもよくなっちまったんだよ。泣かないでくれおれの可愛いキティ」
「は、はっきり言ってくれないと」
「好きだ。これでいいか?」
 腕を伸ばして彼女の眦を撫でるともう泣くなとその男はすり寄って忍び笑うのだった。

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