目を覚ますと消毒液の匂いが鼻を刺した。
「ここ医務室? ……ッ」
起き上がろうとした身体に激痛が走る。
「無理に起きようとするなよ。骨が折れてんだからな」
頭上から影がさして聞き慣れた声が降ってくる。声の主はカルテとペンを手にしたホンゴウだった。
「まァ全治二ヶ月ってとこだ。しっかり食って寝てリハビリして……要はいい子にしてりゃ治りも早くなる」
そう言ってホンゴウは安心させるように最後にニッと笑いかけてくれた。
優しい男だと思う。この船に乗って以来、彼のこの笑顔に何度安心させられたか分からない。実際彼の処置はいつも迅速かつ的確で、彼の言葉に従えばどんな傷も病も必ず快癒した。
「わかってる。ちゃんとホンゴウの言う通りにするよ」
「よしよし。おまえは本当に良い子だなァ」
おでこに置かれた手のひらからじわりとぬくもりが伝わる。野郎共もおまえくらい聞き分けが良けりゃいいんだがなァとホンゴウがボヤく。いつもの患者たちとのやり取りを思い出しているのか彼の眉間には次第に皺が寄っていく。おでこを撫でる手はいつの間にか止まっていた。本当はもっと撫でてほしい、けれどそれを言える関係性にはない。彼を見つめてみたところで何も伝わらない。
「あのーホンゴウさん? そろそろご飯食べたいなァなんて……」
結局言えたのはそんな言葉だった。
「ん? あァ! そうだったな。少し待っていてくれ、もってくる!」
部屋を出ていく彼の後ろ姿をベッドの中から見送る。まるで彼女みたいだと思ってしまった。場違いだとわかっているけれどそんな妄想をとめられない。怪我はしんどいけれど、彼に会いに来る口実が出来たと思えば嬉しかった。
「お待たせ……っと、少し起こすぞ。体重こっちに預けとけよ」
食事をテーブルに置いて両手を空けたホンゴウは真っ直ぐにこちらへやってきた。ベッドに横たわるこの体をを起こすためだ。
彼にそんなつもりはなかっただろうけれど身体の正面から抱きかかえられるように介助されて、それがなんだかハグしているみたいで、つい胸が高鳴るのを抑えられない。
「ほい、痛くなかったか?」
「ん、うん。大丈夫。ありがとう」
顔を覗き込んでくる彼は医者の目をしていた。勝手に意識してどきどきしているのはこちらだけらしい。分かっていたけれど。
「手動かせそうか?」
「……ッ」
「うん、キツいな。わかったスプーンかせ、よし。まずは汁物からな、口開けろ」
「えっや、流石にそれは」
「ほら、あーん」
有無を言わさずスプーンを口元に寄せてくる彼は本当に何も感じていないのだろう。
「……あ」
「よしよしナマエは良い子だなァ。もう少し汁物のんだらちゃんと肉も食わしてやるからな!」
ホンゴウの満足気な微笑みに不覚にもきゅんとしてしまう。彼が妹分のような、時によると子どものような扱いで可愛がってくれていることはわかっている。すぐに頭を撫でて褒めてくれるのも、いつも視線を合わせてから安心させるように微笑んでくれるのも。なにもかも。医者として幹部として年上として、そんな肩書きと彼の生来の優しさの恩恵を受けているだけだとわかっている。
わかっていても心臓は勝手に鼓動を早めてしまう。好きになってしまったの方の負けとはきっとこういうことなのだろう。
「ちゃんと食えてえらかったな」
食べ終えただけで笑いかけてくれるホンゴウはやっぱりとても優しくて好きだなァと思いを深めた。
「じゃあ次は歯を磨こうな」
「う……はい」
ホンゴウは嬉々として歯ブラシを取り出した。迷惑をかけているのは自分の方だし、あくまで彼の善意だと思えば無下にもできず再び大人しく口を開けるしかなかった。
その後もホンゴウによる介護は続いた。恥じらいを盾にどうにか妥協してもらった部分もいくつかあるが、大半は彼の指示通り。されるがままになるしかなかった。食事にはじまって風呂に着替えにそれからトイレまで、何から何まで全て彼のお世話になってしまった。恥ずかしさと申し訳なさが募る。
こんな醜態を晒しているようじゃ女として意識されようはずもない。けれど、世話を焼かれる度に「おまえは良い子だなァ」などと褒められ撫で回されてしまえば、淡い恋心を捨てきることもできなかった。
「次の島で欲しいものはあるのか?」
彼の付きっきりの看病を受けて一週間は経った頃だったか。ホンゴウにそんなことを聞かれた。
「ナマエもわかっているとは思うがまだ下船許可は出せねェ。その代わりおつかいが必要ならおれが済ませておくからよ」
聞き取り調査よろしく紙とペンを用意してホンゴウは尋ねる。
「ううん大丈夫」
特に不足しているものはないし我儘を言うのは憚られた。
「そうか、まァ直前になって思いつくものがあったらその時言ってくれても構わねェからな。いつでも頼れよ」
こうしてたしかに彼からの申し出を断ったはずだった。だと言うのにこれはどいうことだろう。目の前には小さな洒落たショッパーが鎮座している。
「ホンゴウ? あの、これは?」
「おまえに」
「それは分かってるけど」
「ちょっとした土産、良い子へのご褒美だ。折角の陸だってのに何も無しじゃつまらねェだろ? いいからうだうだ言ってねェで開けてみな。軽くなら腕も動かせるようになったろ?」
「でも、このショッパーってさ、ホンゴウ……」
「おまえがよくチェックしてるブランド、新作が出たのは先月。おまえがあからさまに次の上陸を楽しみにしてたのは知ってたよ」
「調べはついてたと」
「まァな」
ショッパーの中を探ると小箱が手に触れた。
「ありがとう、お代はちゃんと支払うからね!」
「馬鹿。言ったろご褒美だって」
伸びてきた手が髪の毛をくしゃくしゃと撫で回していく。
「でも! お世話になってるのはわたしの方なのに……なにも、お礼もお返しも出来てないし……タダで貰う訳には」
「……タダじゃなけりゃ貰ってくれるか?」
「それなら、まァ」
渋々頷くとホンゴウが嬉しそうに笑う。
「ホンゴウは何がほしい? 治るまで待たせちゃうけど」
見上げるとホンゴウはなにか難しそうな顔をしていた。口角が上がって嬉しそうに見えるのに眉間には皺が寄っている。
「……ホンゴウ?」
「キスしたい」
「えっ」
耳を疑った。キス、したい? キス? 彼の台詞がリフレインする。
「……いやか?」
「い、いやじゃない!」
思わず食い気味に答えてしまう。ホンゴウとキスできるなんて夢みたいだ。
「でもわたしとのキスなんかがお礼になる?」
不安が口をついて出た。するとホンゴウは更に悩ましげに眉間に皺を寄せてからまた口を開いた。
「ぐっ……すまん、やっぱ今の無しにしてくれ」
「え、あ。そっかうんそうだよね冗談だよね。本気にしちゃってごめ、」
「あーちがう! 違うんだ。そうじゃない。キスはしたい、本気で」
「ほ、ほんき……」
「だけど、やっぱりこういうのはちゃんと順序を踏まねェと良くねェなって思った。だからその、だな」
「うん? 順序?」
話が見えない。キスしたいって言われた辺りからすっかり混乱してしまっている。いま彼はなんの話をしているんだろう。答えを求めるように彼に視線を向ける。ホンゴウはなにか覚悟を決めるように深呼吸をしてそして口を開いた。
「おれは、ナマエのことが好きだ」
瞳がこちらを真っ直ぐに見つめていた。
「おれたち付き合わないか?」
彼と視線がぴたりと合う。またしても彼の言葉がリフレインして返事どころではなくなってしまった。そのまま数秒間見つめあっているとホンゴウがはにかむ。
「だってなァ、好きだろ? おれのこと」
「う、あ嘘」
「本気だよ」
いつものようにこちらを安心させるような微笑みとは違う。彼の視線が熱い。
「ホンゴウ」
「あァ」
「……すき」
「あァ知ってた」
知っていたというクセに心底嬉しそうに笑う。胸に溢れるこの感情を愛しさというのかもしれない。
思い切って彼に向かって両腕を広げる。近づいてきた寒そうな首筋に腕を回してみた。まだ万全の力は出せないけれど今出せる精一杯の力で彼をそばに引き寄せて、その唇を受け入れた。