夕暮れて
夕焼けに赤く染まっていく雲海。空島の住人にとって見慣れた景色の一つだ。もちろん彼女にとっても。それでも彼女は毎日のように足しげく海辺に足を運び夕景を眺めている。彼女がそうする理由は神のみぞ知る。
はっはっ、と短く乱れた呼吸音は真っ白な海辺を走る。
「っはぁ、こんばんはエネル様。遅くなりまし、た!……っとわっ」
走る勢いそのまま止まり損ねた女が地面へとぶつかる直前、長く白い腕が抱き留める。
「ヤハハハ我を待たせるとは不届き!だが、お前からのこの熱烈な抱擁に免じて許してやろうではないか」
彼女を迎えたその男は機嫌良く笑うと腰をかがめ耳元へ唇を寄せて言った。
「喜べ、舟の完成が近い!」
弾かれたように顔を上げた女が本当に?と問いかける。返された頷きと微笑みは彼女へと伝染し、笑いあう男女の光景は平凡な恋人たちのそれだ。
だがなァ、男はそう言うと一呼吸置いて女の顎をするりと撫でた。そして思案するように口を開く。
「だが、いざ出立のときには遅れまいな?」
口を歪ませて意地悪く囁かれた声に彼女はキッパリと答えた。
「遅れるなんてそんな!!必ず参ります!」
その澱みない宣言に気を良くしたのか女の頭上からヤハハと笑い声が降ってくる。しかし彼女はもう一度口を開き「ただ、」と続けた。
「……ただ、そのもしも万が一、遅れてしまった時はどうか置いて行かれませんように。どうかお願いいたします」
またこれか、とエネルは眉間に皺を寄せた。
「ほォ捨て置かれるとでも?我が愛していると言うのになお恐れているとは呆れた女だ」
神たる自分に対して妙な諦観を抱えているらしいことは心綱を通して以前から知っていたことだ。しかしこの期に及んでまだそんな台詞が出てこようとはとエネルの口からため息が零れる。
“神たる彼を私が縛りつけ続けることなど出来るはずもない“
時としてそう嘆く彼女の心の声。無論彼に筒抜けではあるがその心情の意味が彼に正しく理解されることは無い。
神が人に縛られるなどあってはならない。そんな当然のことを理由になぜ嘆くのか全く理解出来なかったのだ。
「では、もしも、遅れたならば待って下さるのですか」
「くどい。まだ言うか」
「……ごめんなさい」
俯いた女の顔を神がぐいと持ち上げるとうるんだ瞳が揺れていた。
「だってもうあなた無しでは生きられないのに。もしもひとり取り残されてしまうと思ったら……」
口に出しながら想像してしまったのか惑い怯えるように震える女を神は呆れた様子で笑いとばした。
「ヤハハよくもぬけぬけと。社に来いと言うのに聞かぬは貴様の方ではないか?共に暮らせば良いとおれは何度説いた」
非難の声にぽたりと涙をこぼした彼女は、しかしその口角を無理に吊り上げ自嘲気味に笑った。
「ごめんなさい。それでも私はここであなたと待ち合わせするのが好きなんです。国の全てを差配するあなたが、私ひとりの為に神のお社からここへ降りて来て下さる。神官や社の女たち、国中の誰も知らないあなたを独り占めできる気がして。神さまを束縛したいだなんておこがましいって分かっててもでも、これが一番幸せな時間だから……」
せめてこの逢瀬だけは誰にも奪われたくないのだと切望した女を前にエネルは堪らず笑い始める。
「ッヤハハハハ、面白い答えだ。我と居を共にする以上の価値がこのひと時であるとはなんと……」
「それにエネル様との暮らしは限りない大地でいくらでも、いくらでもできると……そう思っていても良いのでしょう?」
「ヤハハ無論だ。限りない大地ならばどこへ行こうと居を構えられるだろうなァ」
二人が過ごす未来を語り合ううち女の涙はすっかり晴れていた。
日が落ちこっくりと暗闇がやってくる頃、神は女に背を向け社へと向かう。
一歩、二歩、広い歩幅で遠ざかるその影が不意に立ち止まり朗々と回答だけを寄越していった。
「もし貴様が遅れるようなことがあればその時身をもって知ることができるさ」
脅すような台詞。ぞわりと寒気がするのは暖かな日が落ちきってしまったせいか、それとも恐怖によるものか。
心綱が神に女の様子を知らせる一方、彼女には夕暮れて薄ら暗い視界の中その神の声色だけが命綱であった。彼の言葉は恐るべき宣告なのか、それとも彼の気まぐれな回答に過ぎないのか。
「ヤハハ!! なにあの景色をようく憶えておくといい。赤らむ空が出立の時だ。空が燃え落ちる前に間に合うといいなァ、ヤハハハハ!」
