勘違い
その日、確かに私は聞いた。ベン・ベックマンの切なげな声を、聞いてしまった。
決して盗み聞こうとしたわけではなかった。たまたま夜中に目が覚めてしまって、水をとりにいこうと船内を歩いていた。そして通りかかったのは誰の船室の前だったろうか。とにかく、明かりが漏れるその部屋からは随分と酔った声がいくつか聞こえてきてこんな夜中まで酒盛りとは流石はうちのクルーたちだと呆れつつもそのまま通り過ぎるはずだった。
「仕方ねェだろうが。惚れちまったんだからよ」
低く唸るように、しかしどこか切なげな色をはらんだその声につづいて、ベックにそこまで言わせるとはなァ! なんて笑い声がした。先の台詞がまぎれもなく副船長の声だったことがわかって私は息をのんだ。彼が本気になる相手がいるなんて思いもしていなかった。ましてやあんな声を出してまで恋焦がれる相手がいるなんて。
気づくと私は空の水差しを片手に部屋へと戻ってきていた。からからに乾いた喉を誤魔化すように唾液を飲み込んでただ茫然とベッドに腰かける。いつから? どこの? どんなひとを? 彼は誰を想って酒を煽ったのだろうか。ぐるぐると頭をめぐるのはさっき聞いてしまった彼の声ばかり。この日私はこの船にのってはじめて泣いて夜を過ごした。
「よう、おはようさん」
翌朝、食堂で声をかけてきたのは副船長だった。
「おはようございます」
うまく笑えているだろうか。
「今夜時間を……、いや今いいか」
急に眉間に皺を寄せたかと思うと副船長が尋ねてくる。
「えっと私、朝ごはんがまだで。なにか急ぎですか」
朝食を載せたトレーを軽くあげて見せると副船長はなにか思案するように顎に手をやる。そんなさりげない仕草もかっこいいなとぼんやり見つめてしまったことに気づいてしまったと思う。もう実らない恋だというのに私の目は勝手に彼を追ってしまうらしい。我ながら馬鹿なことを思って胸がきしんで彼から目を逸らした。早くこの場を去らなければ私はまたこの人に一層深く恋してしまいそうだった。
「すみません、お腹減っちゃって。またあとにしてください」
適当に言い切ると私は彼の横をすり抜けいつも通り朝食の席についた。
甲板に出たベックマンは今朝の彼女の顔を思い出しては溜息まじりに煙を空へと吐き出す。昨晩酔った席だったせいで気づくのが少し遅れたがあの時部屋の外に彼女の気配があった気がした。すぐに部屋に戻ったようだったがもしかすると話を聞かれたのではないかと、あわよくば意識してくれたのではないかと期待して今朝彼女に声をかけてみた。
だが彼女は元気にいつも通りの挨拶を返してきた。やはり昨日の気配は彼女のものではなかったのではないかと思いかけたその時、視界に入った彼女の顔に何もかもがどうでもよくなった。彼女は昨晩泣いていたのだ、とわかってしまったのだ。
彼女の顔には泣いたあとがあった。化粧でうまく隠しているようだったが、女の変化に、それも一等好きになった女のことにベックマンが気づかないわけがなかった。
彼女はなんでもないようにふるまったつもりだろうが、今日一日の彼女の反応を見れば嫌でもわかる。彼女は頑なにおれとの接触を避けていると。その理由がなにであるかはわからないがやはり昨晩彼女はあの場にて話の一部をきいていたからこそ今朝から態度を変えたと思ってまず間違いない。
「意識されるどころか避けられるとはな」
本当はなぜ泣いたのか、その理由を問いただして彼女に涙を流させた原因を潰しておきたかった。彼女の顔を晴らしてやりたかった。しかし、一日すっかり避けられてしまってはどうにもできない。彼女に避けられている事実を悲しむべきか、彼女の助けとなれないことを悔やむべきかベックマンの心はただ荒れていた。
それから三日後
「島が見えたぞー!」
お頭の声に船員一同が沸き立っているなか、誤魔化すような笑みを張り付けた女とそれをみて眉根を寄せる男がいた。
この上陸では物資補給の手配が済んだら数日は副船長といえど仕事はなく自由に過ごせることになっている。ベックマンはこの期間にどうにか彼女との距離を取り戻そうと画策していた。まずは彼女が上陸中どこで何をして過ごすつもりなのか彼女と比較的仲のいいクルーにそれとなく探りを入れるところから始める。やり方としては多少ストーカー臭いかもしれないがそうまでしなければ彼女のことだからきっとこの上陸中もベックマンを避けて過ごそうとするだろう。まずは彼女の視界に入れてもらえるようにならなければいけない。
そんなベックマンの思いとは裏腹に彼女はこの島で気分転換をして少しでも彼への恋心をふっきろうと接岸して早々に自由時間を獲得すると、クルーの誰より早く街へと足を向けるのだった。
「やァお嬢さんひとり?」
街について早々チャラついた男に声を掛けられた。どこの街にもこういった輩はいるものだ。大変迷惑である。
「ねェねェこの街は初めてなんだろ? おれが案内するからさ、一人より二人の方が楽しいよ」
「いえ結構です」
「そう言わずにさァ」
チャラ男はなかなか引き下がる様子がない。どうやらしつこくて面倒なタイプだ。あまり長引くようなら多少の実力行使もやむを得ないかもしれないと頭の隅で考えつつ今はただ歩調を速める。
「ちょっと待ってってほんと一瞬だけでいいから! ね! もちろんおれのおごり! ほらそこの角のカフェなんかどうかな」
男も歩調を速めるとぐるりと目の前に回り込んできた。よけて進もうとしたが今度は腕を掴まれる。
「な、」
「ね、ちょっとだけ。いいっしょ? キミのこと一目見た時からビビッときちゃって正直めちゃくちゃタイプでさァ。ほら行こう」
まくしたてるように言葉を吐きつづける男はつかんだ腕を強くひくとそのまま肩を抱き寄せてくる。
「ちょっと」
流石にこれは実力行使するしかないかと拳に力を込める。しかしその拳をふるうことはなかった。空いていたもう片側から突然別の太い腕が伸びてきたのだ。
「おっと坊主悪ィがその手どかしな」
横暴な台詞に反論しようと口を開いた青年が目にしたのは顔に十字の傷をもち煙草をくゆらせる強面の男だった。
「は⁉んだよテメェっぐあ」
腕をひねり上げられ痛ェ‼と叫んだかと思うと青年は後ずさって、覚えてろよ! と負け犬よろしく捨て台詞を残し逃げ去っていった。
「副船長、どうして」
助けに入ってくれた彼はふー、と一息長く煙を吐き出すとまだ吸いさしの煙草を握り消してから口を開く。
「嫌がっているように見えたが違ったのか」
「いえその……助かりました。ありがとうございます」
数日ぶりに話す彼の声に胸がぎゅうぎゅうと締め付けられるように痛む。彼をこれ以上好きになっちゃいけないのに。
「たいしたことじゃねェと言ってやりたいところなんだが。ひとつ、礼代わりに頼まれちゃくれねェか」
「そんなわたしにできることなら何でも」
「そうか。それなら」
そうして彼からお礼代わりにと頼まれたのは。
「そこの店寄っていくか」
「あ、はい」
「次は本屋にいってもいいか?」
ちょうど気になっていた可愛らしい雑貨店や最近の流行りとチェックしていたアパレルショップ、楽しみにしていた新刊が面だしされている書店。少し歩き疲れて喉が渇いた頃には広場の木陰にあるベンチに座らされていて、
「このベンチでいい子にしていてくれるな?」
「はい、了解です」
戻ってきた彼はドリンクを二つ手に持っていた。そう私は彼とデートをしていた。これは都合のいい夢ではないか? 何度もそう自分を疑ったが隣を歩く彼が私の手をゆるく握りしめるたびにその感触が現実であることを知らせてくる。はぐれない様になんてありきたりな理由で繋がれた手はいつの間にか指を絡ませた形に変わっていて彼との距離が今までになく近い。ずっと胸のどきどきが止まらなかった。なぜ彼がこんなことをしてくれるのか、これのどこがお礼になっているのか。わたしからしたらむしろご褒美でしかないのだけれど、彼にとって利になっているのだろうか。どきどきと混乱とでしっちゃかめっちゃかなわたしとは反対に彼はいつも通りの落ち着きはらった様子でそれがなんだか悔しくもあってまるで落ち着かない。
「あの、これってちゃんとお礼になっているんですか」
隣に腰かけた彼に思い切って問いかけた。
「もちろんだ。これ以上ないくらいにな」
そう言って微笑んでみせる声色もこちらを見つめる瞳もその表情のすべてが酷く甘いような気がして頬に熱が集まっていく。これでは勘違いしそうだ。まるで彼が私を好きみたい、なんて。彼にはもう好きな人がいると知っているのに、また馬鹿な勘違いをしてしまう。馬鹿げた思考を止めなければと頭を振ってみたけれど、その間にも彼の手が私の手を捕まえて離してくれない。もうどうすればいいのだろう。
「なァ、おれからも聞きたいことがあるんだが。いいか?」
どぎまぎした心ではろくな返事もできずただ頷いてその先を促した。
「なら聞くが、なぜおれを避けていた?」
副船長として回されていた作業を最短で終わらせ船内に彼女の気配を探したとき、すでにそれがどこにもないことにおれは正直焦った。すれ違ったクルー数人に彼女の行方を尋ねると少し前にひとりで船を降りていったと言われて急いで気配を探った。まだそう遠くまではいっていないとわかって安堵したのもつかの間、ようやく彼女を視界に収めたときには若いチャラついた男に声をかけられているばかりか健康的に露出されたその腕を掴まれていたのだからぐらぐらと腹の底が煮え立つようだった。だが男のおかげで礼代わりにとデートを申し込むことができたのは幸運と言わざるを得ないのかもしれない。
彼女の優しさにつけこんでとりつけたデートはそれはもう至極のひと時だった。調子に乗って指を絡めたりもしたが彼女は振りほどくことなくされるがまま微笑んでくれていた。
事前にリサーチしていた甲斐もあって彼女の喜ぶ場所に連れていくこともできたしその分だけ彼女も沢山の笑顔を見せてくれていた。喉が渇いただろうとベンチに座らせて飲み物を買って戻ったとき、木漏れ日の中そこに座る彼女はさながら絵画のように綺麗で見惚れた。
けれどここ数日の間何度も遠くで眺めてきたせいか、彼女をどこか遠い存在のようにも感じて、すこしでも彼女を近くに感じたくなった。気づくとベンチにかけてもう一度彼女の手を握りしめていた。
「なら聞くが、なぜおれを避けていた?」
彼女はあからさまに戸惑いを示した。口を小さく開けては閉じてを繰り返している。
「なに、責めようってわけじゃねェよ。わかっちゃいるんだ。おれの、せいなんだろう? あの晩おまえさんは扉の外にいた。そこでおれの声を聞いちまってそれで」
「あ。ごめん、なさい」
顔を青ざめさせて彼女は謝罪の言葉を口にした。
「おまえさんが謝ることねェさ。謝るならおれの方だろう? おれのせいでおまえは泣いた。そうだな?」
彼女の手が震えているのがわかる。この手を握りしめてやりたいけれどそれは許されない。やはり彼女を泣かせたのはあの日のおれの言葉で、彼女を今こんなにしちまっているのもおれなのだと理解する。名残惜しいけれどこの手を放してやるのがきっと彼女のための最適解だ。そう答えを出して繋いでいた手を放す。それはあっけないほど簡単だが胸が酷く痛かった。
「なんで、副船長があやまるんですか。わたしが勝手に思って勝手に終わって勝手に泣いて。それで勝手にずっと無視したりして。わたしがずっと全部悪いだけなのに……」
目に涙をためてぐすぐすと鼻をすすりながら彼女がたどたどしく言葉を紡ぐ。ああその涙をぬぐってやれるのがおれだったならどんなによかっただろう。
「そりゃこんなおっさんからの好意なんて気味が悪かったろう。おまえさんは少なからずおれを副船長として慕ってくれていたってのにおれの方にはこんな下心があったなんていきなり知らされて。そりゃあ泣きたくもなっただろう。悪ィな本当に」
話していて思わず自嘲した。我ながら酷ェ話じゃねェか。こんなに可愛い女の子ひとり泣かせちまってそれでも醜くも彼女が誰かに取られそうになれば身勝手に嫉妬なんてして、そんな資格ありゃしねェってのに。
「いまはまだ気持ちの整理だとかつかねェんだろう? それでおれを避けてた。いいんだ、さっきも言ったようにおまえさんを責めたいんじゃねェ。ただ知りたかったんだ。おまえが泣いた理由を、確かめておきたかった。おれが対処できることならどうにかしてやりてェなんて傲慢なことを、恋人でもなんでもねェってのに考えちまってな」
マッチを擦る。煙草に火をつけたら、もうこの場を去るべき頃合いだろう。おれの長い話を静かに聞いていた彼女はまだ泣き震えているのだろうか。情けない話だがこの時おれは彼女の顔をみることができなくなっていた。
「すまなかった」
最後にそれだけ言って席を立とうとした。
「まって、ください」
小さな手に引き留められたのだと気づくまで数秒かかった。
「……言いたいことくらいそりゃあるか。気づかなくて悪ィな。なんでも言ってくれ」
罵詈雑言を浴びせられる覚悟でもう一度ベンチに腰を下ろすと手を強く握りしめられた。
「逃げやしねェさ」
自嘲気味にそういうと彼女は手を放してくれた。そして離れた彼女の手はそのままおれの両頬に伸びてきておれはされるがまま彼女の方を向くことになる。
「好きです。ベックマンさん」
瞳いっぱいに涙をためた彼女が花のように微笑んで、好きですと言葉を繰り返す。
「は……」
咥え煙草が地面に落ちていく。彼女が何を言ったのか。どうしてこんなにも綺麗に微笑んでいるのか。
「大好きなんです。あなたのことが、ずっと。」
微笑みをたたえて少し恥じらいながら小さな口で何度も愛を紡ぐ彼女。こんな幸せな夢があるだろうか。頬に触れる小さな手からじんわりと伝わる温もりが目の前の出来事を現実なのだと知らせてくる。
「……いいのか。こんなおっさんで」
ようやく言えたのはそんな情けない台詞だった。けれど彼女は笑みを深めて言う。
「ベックマンさんこそいいんですか。こんな小娘で」
「あぁ、あぁ。おまえさんだからいいんだ。こんなに可愛らしいお嬢さん世界中探したっておまえさんしかいない」
「ふふ、うれしいです」
彼女を捕まえておきたくて、何よりも近くに感じたくておれは思わず尋ねる。
「キスしてもいいか」
彼女は顔を赤くして目をあちこちさまよわせてようやく最後にこくりと頷いて目を閉じた。
キスをしたら、今度はちゃんとおれからも伝えよう。彼女がそうししてくれたように何度でも何度でも愛の言葉を伝えよう。それから幾つもの誤解を解いたらまたデートをしよう。そう心に決めて彼女の愛らしい唇にそっと口づけを落とした。