懇願

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懇願

 これは彼と彼女が寂しいと言えるようになるまでの物語。
 
 足音がきこえて目を覚ました。どたばたとクルーたちの重い足音が聞こえてくる。
「もう朝かァ」
 今朝の自分の当番を思い浮かべた。早朝の仕事には入っていなかったはずだ。もう少し惰眠を貪るかそれとも起きてしまおうか。ぼやけた思考ながらも起床することに決めた彼女は毛布から抜け出そうとする。しかし、そこに彼女の腕をくいと引く力が加わった。
「なァにベック。わたしもう起きるんだけど」
「ん……もうすこしいいだろ」
 目が開いているようないないような、そんな状態で腕をもう一度引かれる。彼のものとは思えないほど弱弱しい。ほとんど触れるだけのようなその仕草に思わず胸がきゅんとした。しかしその間にも横にならないナマエに対してベックマンは強硬手段にでた。まるで抱き枕でも引き寄せるみたいに長い腕をナマエの身体に絡みつけてきた。先ほどよりは意識が浮上してきているのかそれなりに力が強い。こうなってしまってはナマエに振りほどくすべはなかった。
「仕方ないなァ」
 ナマエは諦めて毛布をかけ直すとベッドに横になる。
 ベックマンと彼女は付き合うようなって数年が経過している。初めのうちは起きるとすでにベックマンの姿がないなんてことざらにあった。そのたびに冷たくなったシーツになんとなく寂しさを感じていたものだ。
 しかしこ最近はとんとそんな思いをしていない。今日のように彼女の方が先に目を覚ますことも増えた。それだけ彼女に対してベックマンが気を緩め甘えるようになったということかもしれない。ベックマンと朝、ベッドの中で他愛のない話をする時間がお決まりになりつつある。おかげで目覚めた時にあの寂しさを感じることはすっかりなくなっていた。
 元来、ベックマンの寝起きのよさはいたって普通だった。起き抜けはそれなりに眠気を感じるがだからと言って寝続けるほど怠惰でもない。副船長であるがため普段からどちらかと言えば早い時間に起床していたが時には二度寝をすることもあった。
 そんなベックマンが最初のころいつも彼女より先に目を覚ましていたのには訳がある。彼は恋人の寝顔を見るのが好きだった。だから彼女よりも先に目を覚ますことの方が多かったし、愛らしいその寝顔を起こすのはもったいないような気がしてそのまま先に部屋を出ることも多かった。
 そうして置いていくベックマンの姿が彼女には素っ気なく映っていたのだが。
 もちろん彼女からそれについて文句を言われることもあった。しかし、彼女の寝顔をみるとどうしてもその安眠を妨げるような真似はできなかった。
 ただそれも以前までの話だ。いまでは目が覚めると必ず彼女にも声をかけるようになっていたし逆に彼女に起こされるなんてことも増えてきている。なぜこうも変わったのか。
 始まりはなんでもない日だった。
 その日彼女は早朝からコックたちの手伝いだとかで仕事のためベックマンより早く部屋を出た。彼女とベックマンが付き合って以来なかなか当番が回ってきていなかったもののなにも特別なことはない通常業務。加えて前夜のうちに予定を軽く伝えてあった。だから彼女が先に部屋を出ていくであろうことは彼自身織り込み済みだった。
 朝、無意識に隣を探した手が冷たいシーツを滑る感触に目を覚ました。隣には当然彼女の姿はない。ベックマンは昨晩の彼女の話を思い返した。彼女はたしか、今週いっぱいは早番が続くだろうと言っていた。
 思っていた以上にこれは、と思いかけて思考を放棄する。たった一週間。朝ほんのすこしの時間を彼女と過ごせなくなるだけ。それ以外はいつも通り何も変わらない。朝だって食堂へ向かえばすぐに彼女と会える。大したことじゃないと言い聞かせているうちにもベックマンは足早に食堂へと向かっているのだった。
 翌日、彼女がベッドを抜け出ていく気配に目を覚ました。
「ベック起こしちゃった? ごめんね。寝てていいよ」
 幼子でも相手にするようにそう言って彼女はまたひとり先に部屋を出て行った。
 そのまた次の日。大人しくベッドの中から彼女を見送って二度寝をしようと目をつむったが結局眠れずじまい。食堂に向かおうにもまだ彼女は仕事中だろう。考えあぐねたがとうとう目覚ましの珈琲をもらいにいくなんてもっともらしい理由をつけていつもより早くに食堂に顔を出すことにした。
 そして四日目の朝。とうとう自覚せざるをえないなと自嘲して彼女の出て行った扉を見やる。ベッドに取り残されることがこんなにも寂しいだなんて知らなかった。
 プレイボーイと揶揄されるベックマンは彼女と付き合うまで幾度となく夜の街を歩きその腕に女を抱いて眠った。そしていつも彼は寝ている女を置いていく側だった。けれどたとえ彼女たちに置いて行かれたとしてもこれほどまでの寂しさを覚えることは無かっただろう。心から愛しく思い、いつだって離れがたいと思う彼女相手だからこそこんなにも胸の内が冷え冷えとしている。どうしようもなくなったベックマンはこの日も彼女の姿を求めて朝の珈琲をもらいに食堂へと顔を出したのだった。
「おはよう、珈琲を一杯頼めるか」
「おはようベック。すぐ淹れてくるからそこで待ってて」
 食堂に着くなり彼女に声をかける。するとそれに応じて彼女が微笑む。ようやく炉に火が入ったように心が温くなる。すっかり重症だなと息をつくと丁度彼女がカップを持ってくるところだった。
「朝食ができるまでまだかかるのに。昨日もだけど来るの早くない?」
「一人寝が苦手になっちまったのさ」
「なにそれ可笑しい」
 彼女はくすくすと笑って肩を揺らす。
「おいおい冗談だと思っているのか? おまえさんのせいでこうなっちまったんだがなァ」
「ヘェ」
「その顔は信じてねェな?」
「どうせ常套句なんでしょ? 同じような台詞を何人のお嬢さんに言ったことがあるのかしら」
 頬を膨らませてプリプリ怒って見せる彼女がかわいいものだからついベックマンは笑ってしまう。
「なに笑ってるのよ」
「いいや? おまえが可愛くて」
 素直な気持ちを吐露したのだが
「その手には乗りませんからね」
 暖簾に腕押し。まったく聞いちゃくれない。
「おいおい」
「じゃあね。わたし仕事に戻るから」
 あっさり踵を返して仕事に戻っていく彼女を見送る。けれど先ほど会話ができたおかげかもう胸の内に寂しさはなかった。
 それから彼女の早番が終わって数日経ったある朝のことだった。珍しく彼女が先に目覚めたらしくその気配にベックマンも目を覚ました。
「起きるのか?」
「んんどうしようかなァ」
 眉間に皺を寄せて起きようか起きまいか悩んでいるらしい。そんな彼女をみてベックマンは笑みを浮かべた。
「もう少しくらい眠っていたっていいだろう」
 彼女を引きずり込むようにして鍛え上げられた広い胸へ抱き込める。
「ベック、もしかして今日は甘えたさん?」
 見上げてくる瞳はまだぽやぽやしていて愛くるしい。
「安心するんだ。おまえがいるとよく眠れる。前にも言ったろ? 一人寝はもうできないんだってな」
「ふふ、そういえば言ってたね」
「責任とってくれるよな、ダーリン?」
 軽くキスをすると彼女は身をよじってくふくふと笑った。
 しかしそんな平和な朝からは想像もつかないほど、その日の夜から船は大荒れの海に入ることになった。
 この海域をどうにかやり過ごそうと船上には指示が飛び交う。誰もが忙しなく駆け回った。しかし忙しいときに限って面倒はやってくるもので、全方位が雨に煙る視界不良のなか船影が視認された。
 活きのいいルーキーならこの大嵐を利用して撒いてやることもできただろう。だが今回の相手は歴戦の、が頭につくような名うての海賊たちだった。大荒れの波も乗りこなし砲弾を撃ち込んでくる始末。
 とうとう船と船を行き来しての戦闘となった。激しく打ち付ける雨と飛び交う怒号に混じる戦闘狂たちのご機嫌な笑い声。とはいえ戦況は初めからこちらに傾いていた。嵐の中にあってもその強さは変わりなく幹部陣にいたっては余裕すら感じられる。
 決して劣勢などではなかったはずの戦いのさなかだった。ベックマンの表情にほんの一瞬焦りが現れたのは。
 目の前で彼女が倒れた。
 普段の彼女なら躱せたはずの銃弾だった。本来なら彼女がそれを躱したうえで切りかかってきた剣士に飛び掛かる。彼女が開いた視界を利用してベックマンがその奥にいる狙撃手をしとめるそんな算段さえあった。
 それなのに彼女が目の前で倒れていく。まるでスローモーションのように見えたその光景にベックマンの顔に一瞬の焦りが浮かんだ。
「ナマエ!!」
 叫び声は嵐の戦場にあっては当然のようにかき消される。どさり。倒れ伏した彼女に届かなかった腕は空を切る。そして次の瞬間、彼の指は引き金を引き寸分の狂いなく下手人を撃ち殺した。
 戦闘はまもなくして終わりを迎えた。彼女をクルーに任せるとベックマンいつもと同じように各所に指示を出す。その顔は船の誰もが知るいつもの副船長だった。恋人の負傷に不安も焦りも微塵も見せない。堂々と指揮する姿はどこまでもいつもの副船長だった。
 
「ホンゴウ、いいか」
「あァいいぞ……およその処置は終わってる。あとはこいつ次第だ」
 入室を許されたベックマンの目に入ってきたのはベッドに横たえられた彼女だった。こいつと呼ばれたその女は白い顔で目をつむっている。顔の半分が包帯に包まれていた。
「……そうか」
 包帯で隠れていない方の頬に触れる。普段の手入れが行き届いた滑らかな肌とはちがう感触。かすれたような感触に現実感が遅れて追いついてくる。
「まだやることが残っている」
 かろうじでそんな言葉を吐き出してベックマンは逃げるように医務室を後にした。実際のところベックマンでなければならない仕事はもうない状態だった。恋人が負傷したという彼を気遣って代われる仕事はクルーたちがそれぞれに滞りなく遂行してくれている。
 だがあのまま医務室にいて自分に何ができたというのだ。そんな言い訳が浮かんでは消えていく。端的に言えば恐怖にさいなまれていた。
 それは置いて行かれる感覚。朝に目が覚めたときベッドに置いて行かれたときのようなそら寒さと似ていた。
 あの時は食堂に行けばそこで元気に仕事をこなす彼女と会っておはようと挨拶を交わすことができた。けれど今彼女は医務室の真っ白いシーツに横たわっている。甲板にでても自室に戻ってもどこにも彼女の笑顔はない。ぞっとした。戻ってこない相手を想うのはこんなにも胸を空虚に満たすものなのかと。
 行く当てもなく船の破損個所の確認がてら、その実なんの目的もなく、船内をただぶらぶらと歩き回って時間を潰して過ごす。だが結局最後には医務室の扉の前に立ち尽くしているのだった。
「入るぞ。ナマエの様子はどうだ?」
 意を決して入った室内には消毒液の匂いが充満していた。
「そう簡単に急変してたまるかよ」
「あァ、そうだよな」
 ベッドの傍に椅子を置いて彼女の手を握った。冷たいけれどまだ温かい。生きている証拠だった。
 柄にもなく祈るような気持ちで彼女の白い手に縋った。どうか助かってくれとその一心で。だがどんなに願い祈ったところで彼女が目を覚ます道理はない。そしていまだ船は大嵐のなか。いつまでも仲間たちに仕事を変わってもらうわけにもいかない。
 そうして嵐の海を行くレッドフォース号の指揮と医務室通いの日々が続いた。連日、副船長室はいつにもまして煙っていたという。煙草の消費量が増えていくことに誰もが、ベックマン自身も、それに気づいていたが止めることはできなかった。
 しかし激務の日々は長くは続かなかった。船は嵐と荒波を越えたのだ。久々の快晴のもと甲板では大洗濯大会が行われた。船員たちが目に見えて明るさを取り戻していく一方でベックマンの表情は一向に変わらなかった。むしろ、激務で誤魔化していた感情のやり場を失ってしまったようだった。
 ベッドの中、手は無意識に彼女を探して何度も空のシーツを行き来する。そして彼女がまだ戻ってきていない現実が襲ってくる。それの繰り返しだった。空いた時間には彼女のもとを訪れた。まだここにいることを実感したくて何度も彼女の手をとり力を込めたが彼女は一向に握り返してこない。
「副船長。きくが最後にぐっすり眠ったのはいつだ」
 とうとう船医に見とがめられるほどにベックマンの疲労は目に見えるものになっていた。
 無理してくれるなよと一言だけ忠告するとホンゴウは医務室を出て行く。彼にも理解できないわけではない、それでも船医としての立場が彼に忠告の言葉を言わせただけだった。
 それから数日、ベックマンは誤魔化すように寝酒を煽ってベッドに入った。意外にも簡単に眠りに落ちたベックマンは久しぶりにぐっすりと眠った。そして翌朝自然と目が覚めて淡々と朝の支度をする。
「は、はは」
 思ってもみないほど簡単だった。すこし酒を呑んで眠るだけ。たったそれだけで眠りつくことができてしまった。そして今朝にいたってはベッドに彼女を探すまでもなく自然とベッドから出て支度をしていた。彼女がいなくても眠れるし寂しさを感じることなく目を覚ませてしまった。どうしようもなく、彼女がいない現実に順応していく自分に乾いた笑いがこぼれる。
 きっとこうやって少しずつ彼女の居ない生活に慣れていってしまうのだろうと自分で理解できてしまうことに嫌気がさした。もし彼女が命を落としたとしてその後を追ってはやれない。この命はとっくの昔にお頭にくれてやった。それは今も変わらない。変えられない。それと同時に彼女への想いに噓偽りはない。愛している。愛しているのだ。それなのにこの生活に順応してしまう自身の薄情さが今はただ空しかった。
 清潔な白いベッドに横たわる彼女の手をとる。
「なァ頼むから薄情な男だと詰ってくれないか」
 語り掛けるも規則的な呼吸が返ってくるだけ。部屋は静かなものだった。
「おれをナマエのいない世界に慣れさせないでくれよ」
「はやく目を開けてくれ」
 語り掛ける言葉はどれもあのベックマンのものとは思えないものばかりだった。らしくもなく懇願するように言葉を続ける。
「いつの間にかお前がいなくても眠れるようになっちまった」
「最近はおまえを探す回数が減った」
「だから」
 はやく戻ってこいと言うと、とうとうベックマンは口を閉ざした。言葉の尽きたベックマンはそれでも彼女の手を離すことなく握りしめる。
 そうしているうちにホンゴウが医務室へとやってくる。
「よォ副船長か……すこしは眠れてるらしいな。よかったよ」
 目ざとくそう診察してみせたホンゴウの言葉が今のベックマンには痛かった。
「あァ、おれの心配なら要らねェよ」
 力なく笑うベックマンの姿にどの口が言うんだと思うホンゴウだったがこの人はどうせ頑として認めないのだろうなと思い直してため息をつく。
「あんたがそう言うならそうなんだろうな。まいいさ。おれは手合わせしてたやつらの怪我みてくるわ。あーそれとお頭がなァ」
 
「……はァわかったすぐいく」
 最後に彼女を一瞥してベックマンもホンゴウとともに医務室を後にした。
 
 馴染み深い匂いがかすかに鼻をくすぐる。女が目を覚ますとそこにはベックマンの姿があった。
「べ、」
 続くはずの音は声にならなかった。長いこと声を発していなかった身体は呼吸をするだけで精いっぱいだ。それでもベックマンは彼女の声を確かに聞いていた。
「ナマエ……!」
 驚いたのか彼は立ち上がってそのまま立ち尽くしている。
「べ、く。」
 ままならない発音で彼を呼べば弾かれたように動き始めた。
「いまホンゴウ呼んでくる、待ってろ」
 それだけ言って彼は部屋を出ていく。ホンゴウと言われて初めて自分が医務室にいることに気づいた。どおりで煙草の香りが薄かったわけだ。これだけ消毒液の匂いで充満しているのだから当然だ。
 それから慌ただしく入ってきたホンゴウの診察を受けた。診察の合間にあれからどうなったのか話を聞かされた。ようやくあの日からどれだけ経ったのか知ることができた。思っていた以上に日が経っていたことに驚く彼女の横でベックマンは静かにたたずんでいた。
 なにも言わないベックマンを不思議に思ったのか彼女は尋ねようとする。どうしたの? と。けれどそれだけの言葉を発するのが今の彼女にはひどく難しい。結局この日ベックマンと彼女は会話らしい会話をすることがなかった。
 翌朝、早くに目を覚ました。隣に彼がいないことに寂しさを覚えるのは久しぶりのことだった。はやく会いたいけれど絶対安静を言い渡されたばかりで動きようがない。仕方なく二度寝をしようと目を閉じると扉がノックされた。
「入るぞ」
 声の主は会いたいと願ったその人だった。まだうまく喋ることのできない彼女に変わってベックマンは今日までにあった出来事を大きなことから小さなことまでいくつも話した。けれど彼女はすぐに気づいた。ベックマンの表情に陰りがあることに。昨日ホンゴウから話を聞く間もずっとそうだったようにベックマンの様子がどこかいつもと違うのだ。それを問いただすことのできないのがもどかしかった。
 部屋の外から次第に足音が聞こえ始める。みんなが起きだしたのだろう。目の前の彼も腰を浮かせてどうやら食堂へ向かうようだった。
「い、いってらっしゃい」
 いかないでと声にしようとてできなかった。彼は傍にいるのに妙に遠くにいるように思えた。
 彼女が目覚めてからベックマンはどうしていいのか迷っていた。薄情にも彼女の居ない生活に慣れ始めていた自分。それを彼女は知らない。彼女に不義理を働いたわけでもないのにどこか後ろめたさがあった。今すぐ彼女を抱きしめて心を満たしたいと思う一方でそんな虫のいいことをとどこかで責める自分がいる。
 「ナマエ、飯をもってきた」
 盆に並んだ料理からはほこほこと湯気が立ち昇る。目覚めて以来やっと普通の食事がとれる最初の日だった。
「ありがとベック」
 声もすっかり元通り出せるようになっていた。けれどあの日言えなかった「いかないで」の一言がまだずっと言えていない。ベックマンへの違和感が彼女にそうさせていた。
 一方でベックマンもまだ彼女に何も伝えられていなかった。自身が抱える不安よりも彼女の体調が戻ることをなにより最優先に考えた結果でもある。
「熱いからな。気を付けて食べろよ。ほらあーん」
「……ベック流石にそこまでしてくれなくても」
「いいから、食え。ん」
 突き出された匙を仕方なしに口に招き入れる。
「はふ。おいし」
「そりゃよかった。コックたちに伝えとくよ」
 そしてひょいひょいと口元に運ばれてくるにしたがって食事を綺麗に平らげると二人は他愛のない会話をした。互いに思うことはあれど核心には触れないようにしていた。その場しのぎのような会話を終えるとベックマンが席を立つ。
 また行ってしまう。あとすこし、ほんの少しだけ引き留められたらと彼女は願う。
「じゃあまた」
「あァまたな」
 けれど今日もそれは叶わない。
 結局彼女の願いが叶ったのは医務室暮らしを終えた更にその後のことだった。
 生活はもとに戻りつつあった。夜になればベックマンと同じベッドに寝転がり、そして朝になると彼がもうそこにいない元通りの生活。
 けれど唯一元通りにならないものがあった。彼の表情だ。ずっとどこか曇っている。彼女はとうとう行動を起こすことにした。
 あとはもう寝るだけになった副船長室のベッド。二人並んで横になってから彼女は口を開いた。
「ねェ、ベック。わたしがずっと眠っている間に本当はなにがあったの?」
「それなら前にも話したろう?」
「でもわたしに言っていないことがまだある。そうでしょ」
 大の男が息をのむ音が聞こえた。
「……おまえさんにゃ敵わないね。怒らずにきいてくれよ」
 そういってベックマンは静かに語り出す。自分がどんなに薄情な男であるか。とくとくと語って聞かせた。
「テメェでテメェの愛ってやつが信じられなくなっちまったのさ」
 自身の生活に支障がでなくなったことで彼女への愛を疑い始めたのだという彼の姿に女は驚いた。
「そんなこと?」
「おいおい、おまえさんを本当に愛せているのかってのは大事なことじゃねェのか」
 拗ねたような口ぶりでベックマンは彼女に尋ねた。
「それは、そうだけど。でもねベック、あなたはわたしがいなくなっても生きていけるわ。それにわたし後なんか追ってきてほしくない」
「一緒に死んでくれとは言ってくれねェわけか」
「馬鹿ねあなたの命はこの船と一緒。お頭に預けたんでしょう?」
「それはそうだが。ひでぇ男だと詰っていいんだぜ?」
「しないわよそんなこと。最初から分かり切ってたことだし。ベックはわたしが死んだあとわたしを必要としなくなることが怖いんでしょう? でも別にいいのよそれで。わたしベックマンに依存してほしいわけじゃない。ただ愛していてほしいだけだもの」
 ベックマンは彼女の言葉に耳を傾ける。
「ね、わたしのこと嫌いになっちゃった?」
「そんなことあるわけないだろう」
 言われた傍から否定してやれば彼女はくすくす笑った。
「でしょう? なら心配しないで。わたしが何度でもベックのこと骨抜きにしてあげる。生きて傍にいる間はやっぱりわたしも寂しいとか思っていてほしいから、だから何度でもあなたが寂しいと思うくらい好きにさせてみせる」
「えらいおとし文句だなァ」
「それでね、いつか本当にわたしが死んじゃったらその時は今回みたいにすこし寂しいと思ったあとちゃんと立ち直って生きててほしいの。あなたはこの船に最期まで必要不可欠な人だから」
「おれの愛情より船の心配か。おまえさんらしい」
「それでいいの。もしまたわたしが怪我して起きるまでの間にベックが勝手に立ち直っちゃってもいいよ。わたしがまた首ったけにしたげるから心配しないで。それで寂しいってちゃんと言わせてあげるからさ」
「だからもう泣かないでベック」
 ベックマンの頭を胸に抱き込めてあやすように髪を撫でつける。言われて初めてベックマンは自分が涙を流していることに気づいた。ゆりかごのようなその安心感にまたぽろりと涙がこぼれていく。
「あァ、あァ……寂しかったんだ……」
 その晩、二人は静かに抱き合って眠りについた。
 翌朝、ナマエは経過観察のため早くから医務室に向かった。当然のごとくベックマンはナマエの居ないベッドで目を覚ますことになった。
「ナマエ……?」
 すっかり慣れ切ってしまったと思っていた一人の朝。けれど昨晩、彼女を抱き込めた感覚を鮮明に思い出してぽつりと零す。
「さみしい、か」
 胸がヒヤリとした。以前何度も味わった彼女のいない朝の冷たさに焦ってドアを開けると丁度戻ってきた彼女がそこに立っていた。思わずそのまま無言で彼女を抱きしめてしまうと下から「く、くるしい……」と抗議の声が飛んでくる。
「起こしてくれればよかっただろ」
「だってわたしの看病で一時期寝てなかったってきいたし。疲れてるかなって」
「どうってことない。次からは起こしてくれていい」
「んー、次からはそうするね」
 ベックマンの腕から解放された次の瞬間には視界がぐんと上がっていた。抱き上げられてベッドに連れていかれるようだ。
「あれ? ベック? 起きるんじゃないの?」
「二度寝だ。たまにはいいだろう」
 ベックマンの珍しい行動に彼女はふと思い当たることがあった。
「……ねェもしかして寂しかった? わたしが起こさないでいっちゃたから。薄情な男だとか言ってたけどもう寂しくなっちゃったの」
 するとバツが悪そうにベックマンが口ごもって、けれど明確に答えてくれた。
「……あァ。悪いか」
「ううん、嬉しい! ベックが寂しいって思ってくれたなんて。それにしてもいつも誰かさんはわたしのことおいて行っちゃうよねェ。寂しいからわたしいつも起こしてっていってあったのに」
「……それは、すまん」
「珍しく素直だ。可笑しい」
 彼女をベッドに横たえるとベックマンもその隣に横になる。こんなに空気の軽い朝は二人にとって久しぶりのことだった。だから彼女も言える気がして思い切って口を開く。
「じゃあさ約束しようよ。次からは片方が寝ててもちゃんと起こしてから部屋をでること! っていうのはどう?」
「そりゃいい」
「でしょう? だから次からはわたしのこともちゃんと起こしてよね」
「あァわかったよマイダーリン」
「んふふ、よろしくねマイハニー」
 いかないで。ひとりにしないで。一緒にいて。たったそれだけのことを彼女はようやくベックマンに伝えることができた。彼女は上機嫌に笑うとベックマンの太い首筋に抱き着く。
 これ以来、ベックマンは彼女を必ず起こして朝決まって話したりじゃれついたりしてから起きるようになったし今では先に起きようとする彼女の腕を引いて「もうすこし」なんて甘えてみせる。これは彼と彼女が互いに寂しいと言えるようになるまでのちょっとした出来事。
 じゃれあう二人の円満の秘訣はさみしいと伝えること。まだいかないで傍にいてと年甲斐もなく恥も外聞もなく素直に伝えあう。たったそれだけのことだという。難しいけれど簡単な二人を繋ぎ合う秘訣だった。

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