暗い夜道を二人きり、交わす言葉もなくただ歩く。二人の間には丁度一人分のスペースがぽっかりと空いたまま。夜風が火照りを冷ましていく。船に帰り着く頃、彼女の涙はすっかり乾いていた。
冷静さを取り戻したナマエは自室へと足を向ける。ベックマンと話をするつもりなんてなかった。けれどベックマンはそれを見越していたのか彼女の手を引いた。まるで逃がさないと言わんばかりに力をこめて。
「こっちだ」
それだけ言ってベックマンは自室へと向かった。
〇
副船長室は相変わらず煙草の匂いがした。甘やかな時間をここで幾度となく過ごした。けれどそれももう過去のことだと彼女は戒める。
口火を切ったのはナマエだった。
「本当に戻ってきてよかったの? 折角美人に声かけられてたのに」
「気にしてくれるのか」
「別にそんなんじゃないけど……でも、私なんかといるよりは楽しく過ごせたでしょうね。ヒステリックに泣き喚く女の相手なんかよりよっぽど」
自嘲する彼女の頬にベックマンは手を伸ばす。
「ナマエを独り占めできる方がよっぽど嬉しい。言ったろ泣こうが喚こうが、おまえから与えられるものならなんだって嬉しいってなァ」
「だから、もうそういうのやめてよ。わたしのことは放っておいて……」
床板の木目を見つめて彼女は今夜何度目になるかも分からない拒絶を示す。
「それで忘れちまえばいいってか」
「そうだよ。女なんて他にいくらでも」
「ナマエがいいんだ。おまえさんじゃなきゃ意味がねェ」
「っなんで今更になって。全部もう遅いよ……」
「そう、だなァ。そこから話そうか」
煙草に火をつけてベックマンは話し始めた。
「笑ってくれて構わねェいや、いっそなじってくれてもいいんだ。おれはずっとどうすりゃいいのか分からなかった。あァ大の大人が何をと思うだろう? 不安だった。おまえさんの気持ちがいつか他所の若ェ男にでも流れちまうんじゃねェかと、おれは不安だったんだろうなァ」
目を伏せて煙を吐き出すベックマンは彼女との日々を思い返していた。
「おまえの気持ちがおれにあることを確認したかったんだろうよ。最初は嫉妬のひとつもしてくれるんじゃねェかと女々しく期待してたってわけだ。だけどそうはならなかった」
「わたしが悪いって言いたいの?」
「いいや? おれがどれだけ馬鹿だったかって話だよ。なにも言われなくたって、曖昧に笑って迎えてくれるおまえを見りゃすぐに分かったさ。おまえの表情が曇るのを見て安心していた。おれはとんだクズ野郎だ。そのくせ一丁前にかっこつけたがって余裕があるフリばかりしてた。若さで劣る分、大人らしく余裕のあるふりをするくらいしか思いつかなくってなァ。だからおまえの隣を他の野郎に許しもしたさ。本当はいつだっておれがおまえの隣を独占したかったのになァ」
ベックマンの吐露にナマエは動揺を隠せなかった。嫉妬して欲しかったとか余裕ぶっていたとか自嘲気味に語るベックマンは彼女の記憶の中にいるどの彼の姿とも一致しない。
「おまえさんが今もおれを信じられねェのは、おれがいつも女連中と呑んでいたからだろう」
ふいに投げかけられた問いかけに彼女は静かに頷く。
「そうね、ベックマンはいつも来るもの拒まずでしょう」
「本当はおまえの隣にいたかったなんて言っても信じちゃくれねェだろうな。だが、一応言わせてもらうと宴の間、おまえから目を離したことは一度たりともねェんだ。おまえさんはいつも振り返っちゃくれなかったから知らねェだろうが」
「なにそれ」
「男の嫉妬は嫌われるって言葉知ってるか? かっこわるいと思ってたのさ。余裕のあるふりをしていたかった。いつまでもおまえさんの前でカッコつけていたかった。なァナマエ、おれを見てくれ」
彼の言葉に従って彼女は顔を上げると彼と目が合ってゆるりと微笑まれる。
「やっと目が合ったな」
目に映るベックマンはいつもの逞しい副船長でも女泣かせのプレイボーイでもなかった。
「ベック、わたしに嫉妬して欲しかったの?」
「あァ」
「宴のときわたしがあいつらと呑んでるのみて嫉妬したりした?」
「あァいつもな」
「そう……」
「おまえのことが好きでたまらない。今も昔もずっとさ」
ナマエの瞳が揺れるのをベックマンは見逃さなかった。
「いまもそうだが、おまえはいつもおれを責めないよな」
「そんなことは」
「ないとは言わせねェ。おまえはいつもおれを許しちまう。良いことを教えようか、おれを振ったときでさえおまえさんは嫌いになったとは言わなかった。だからつい都合のいいように考えちまう…… なァ、まだおれのこと」
その指摘は彼女が恐れていたことだった。彼の傍にいれば自然と彼に絆されてしまうであろうことを彼女自身が一番よく理解していた。
「言わないで。お願いだからもう何も言わないで! ベックのことなんてほんとは、ほんとに、嫌い。だいきらい、だから」
けれど、嫌いだと声に出すと同時に彼女の瞳からはぽろりと涙が零れてしまった。嫌いじゃなきゃだめ。もうあんな想いはしたくないでしょうと警告が脳内を埋め尽くす。
「イヤなの。もう、やめて。きらい。ベックのことなんて嫌い。だからもういいでしょ? これでいいでしょ」
とめどなく溢れる涙はそのまま。うわ言のように嫌いだと繰り返す彼女を堪らずベックマンは抱き寄せた。
「っもういい。それ以上おまえが傷つく必要なんてない。認めてくれ、おれのことが好きだと。泣くほど苦しむくらいなら嫌う必要なんてどこにもない」
彼女の涙を拭ってベックマンは哀願する。
「おれが悪かったんだ。全部おれのせいだ。だからもし、もう一度だけおれを許してくれるなら目を瞑ってくれ。それで全部終わりにしよう、な?」
彼女の顔を覗き込んでベックマンは彼女の答えを待つ。
「……っもう、どこにもいかない?」
「おまえだけだ。だからずっと隣に置いてくれ」
彼女が目を閉じる。溢れ出た雫は頬をするすると流れ落ちると、頬の辺りでベックマンの手のひらに拭われて消えていった。
「愛してる」
触れるだけのキス。それでも互いの想いはたしかに通じあった。
〇
「おーい呑んでっかァ!」
今日も今日とて赤髪海賊団は宴の真っ最中。暮れた空には星が瞬く。
「よっ! 副船長とはどうにかなったらしいな」
陽気に肩を叩いてきたのはいつもの同期だった。
「あーお陰様で?」
「なんで疑問形だよ。そこはおれのおかげですー! って酒の一杯も奢ってくれるとこだろうがよ」
「はいはい、ありがとうね」
彼女の表情にはもう以前のような暗さはない。晴れ晴れとした彼女らしい表情に満足して青年はジョッキを煽る。
「あの時のおまえの辛気臭いツラったらなかったからなァ」
「うるさいなァもういいでしょ」
「で、副船長は今日どうしたよ。最近ベッタリだったくせしていねェじゃねェか」
「まだ書類整理が残ってるらしくて。後から来るってさ」
「ははあ、あの人も毎度大変だねェ。そんでおまえはあの人が来るまでそうやってちびちび呑んでるってワケか」
「……呑みすぎるなって釘刺されてんのよ」
「あァおまえ酔っ払うとひでェ絡み酒だからな」
「あんたも人の事言えないでしょうが」
お互いの酒癖の悪さをあげつらっては酒の失敗談をいくつも言い合ってゲラゲラと笑い合う。
「そういえばさァ、前に船で宴やった時あんたにキスしようとしてわたしそのまま潰れなかった? あの時は久しぶりに記憶無くすまで呑んだなァ」
「あれ? なにおまえ覚えてないの」
それまで腹を抱えて笑っていた同期の声のトーンが急に変わった。
「お、覚えてない。けどあんたが部屋まで運んでくれたんだよね?」
恐る恐る尋ねるとあっけらかんとした様子で青年が答えた。
「あァおまえイビキかいて寝てたから何も知らねェのか……おれじゃねェよ、運んだのは副船長」
「えっ」
「えってなんだよ。良かったじゃねェか。おまえを掻っ攫っていく副船長の余裕のなさときたらさ、いやー面白いもん見せてもらったよ」
「へ、へェ」
思わぬタイミングで知らされた事実に胸がきゅうと締め付けられる。ナマエは浮かれる心を誤魔化すようにジョッキへと手を伸ばした。しかしその手は分厚い手のひらに遮られる。
「お嬢さん、その辺にしとけ」
「っベック!」
そのままジョッキを煽ったベックマンの喉仏が上下するのを見つめる。
「さて、こいつの相手をしてくれてありがとうな。おまえも呑みすぎるなよ」
「へーい」
「え、ちょっと」
ベックマンに腕を取られ立ち上がる。抱き寄せられた彼の胸の中で息を吸い込むと、酒の酩酊感と相まってくらくらした。
「おまえさんはおれを妬かせるのがうまいなァ」
「そんなつもりは」
「分かってるよ。あいつは仲間だしおまえもわざとじゃねェってことはな」
「今日は仕事あるから先に行ってろってベックが言ったくせに」
酒を取り上げられたことに不貞腐れてつい文句を垂れる。
「それは、悪かった」
「……仕方ないから次からはベックが終わるまで部屋で一緒に待っててあげる」
「本当か……! そいつはありがてェなァ」
ベックマンは腕の拘束を緩めるとナマエの顔を覗き込む。
「キスしていいか」
「……どーぞ」
彼女が目を瞑ったのを見届けて、ベックマンは微笑む。以前よりも幾分か素直になった彼女はベックマンの隣を遠慮しないようになった。同時にベックマンも彼女の前で無駄か見栄を張るのをやめた。嫉妬も文句もお互いに伝えあっているのに以前よりよっぽど仲が深まっていた。
「キス、しないの?」
「お嬢さんのキス待ち顔があんまり可愛いかったんでつい、な」
「馬鹿」
「悪かった。名誉挽回の機会を与えちゃくれねェか」
重ねあった唇から互いに体温を分けあうように幾度もそれを繰り返す。酒気は薄くまだ宴は始まったばかりだと言うのに二人の熱ばかりがふつふつと上がっていく。
「ん、いまはここまで。ね」
微笑む彼女にベックマンは悩ましげにため息をついた。
「おまえさん、おれの扱いがうまくなったんじゃねェか」
「かもね。ほらお酒のも、あっちにあったツマミも美味しかったよ」
ベックマンは彼女にされるがままジョッキを持たされる。
「はい、乾杯」
「あァ乾杯」
ぶつけあったジョッキが小気味いい音を立てる。酒がとぷりと波を打った。