恋人

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 例えばそれは彼の全てに翻弄されて気絶するように越える夜、ただ互いの心音だけをたよりに眠りにつく夜。徹夜続きの彼を寝かしつけるような夜があれば嵐や戦闘に昂ぶりをぶつけあうような夜がある。夜、彼とともに過ごすことが彼女の日常だった。
 足首を浸して海で遊ぶ。今夜はベックマンから逃げてきた。船は目と鼻の先にあるからわたしがここで不貞腐れているのを彼は知っている。知っていてあえて追いかけてこない。優しさと思うべきか薄情と思うべきか。
「絶対にベックが悪い」
 ぶつくさ呟いて砂浜を歩く。本当は今夜、彼からお誘いがあった。だからいつもより少しだけ時間をかけてお風呂に入ったし、スキンケアも丁寧にしたつもりだ。だけどそんなツヤツヤぴかぴかのわたしを迎えたのは知らない女の香水を纏った彼だった。
 彼はわたしという恋人がいながら別の女にそれだけの距離を許す。それ自体はいつものことだから今更どうこう言うつもりはない。だけど自分で誘っておいて別の女の匂いをつけてくるのは流石にどうかと思う。わたしはその場で彼が弁明するのも待たずに部屋を出た。その時に追いすがる声は聞こえなかったし、追いかけてくる気配もなかった。彼にも少なからず自覚があったということだろう。
「わかってるなら落としてこいってのよ……」
 妙に私好みの香りだったのも腹が立つ。普段なら気にならないけど今回ばかりはどんな相手だったのかなんて気にしてしまって嫌になった。だからわたしはこうして一人、夜の砂浜で遊んでいた。いっそ夜の街とやらにわたしも出掛けてしまおうかと思わなかったわけではない。だけど結局こんなところで呆けている。その理由は一言でいえば夜の街が怖いから。いまだに足が竦むのだから仕方ないじゃないか。
 女を性欲のはけ口としか思っていないような連中ばかりがうろつく。そんな通りを歩くと決まって吐き気が襲ってくる。そんな風になってしまったのは故郷の島が下品で低俗な海賊のナワバリだったせい。家を一歩出れば海賊が街を闊歩し目をつけられたら最後、扱き捨ての穴扱いされるのが当たり前の場所だった。
「うぐ……」
 思い出したせいか吐き気がこみあげてくる。こんな時は決まって、ベックマンも後腐れのない女をとっかえひっかえしたいんじゃないかなんて妄想に取りつかれそうになる。例えばわたしは海上にいる間の体のいい性欲処理の相手ってだけなんじゃないかなんて。そこまで考えて深呼吸を数回繰り返す。空気を取り込めば悪い思考にストップがかかる。そこに背後からふいに人の気配が近づいてきた。
「ナマエ」
 ベックマンの声だった。けれど振り返ってなんかやらない。今回のことは全面的にベックマンが悪いのだから。例えその声にいま安心してしまっているとしてもだ。
「もう夜も遅い、ここにいつまでもいちゃ冷える。船に戻るぞ」
「それだけ?」
「香水のことなら、おまえさんへのプレゼントにと思っていた。昼間、店でいくつか試しにふってみたんだ。それで香りがついた。これでいいか?」
「いまは、だめ」
 先ほどの軽いフラッシュバックのせいか身体がうまく言うことを聞かない。震えが止まらないのだ。しかしベックマンはそれと知らずに一歩、距離を詰める。
「……震えているのか」
 息をのんだ彼が数歩近寄ってくる。
「だめ、だめだか……ら」
 わたしの制止を無視して歩み寄ってきたベックマン。その大きな身体はわたしを背後から抱きしめるでもなくぐるりと回り込んできて真っ直ぐに正面から手を差しのべた。
「おれはここにいる。おまえさんが決めてくれ」
 それは選択肢をわたしにゆだねる言葉だった。身勝手に奪い蹂躙しないという意思表示。選ばれるのをただ目の前で彼は待っている。
 「あ」
 風にのった薄い彼の香りだけがわたしを包んでいく。きっとここに来る前にシャワーを浴びてきたのだろう。石鹸の香りとそれに混ざって香るのは彼愛用の煙草のにおいだった。その香りがわたしの一歩を助けてくれた。もう大丈夫だと思えてしまう、彼だけが使える魔法。差し伸べられた手に縋って一歩踏み出せば彼がゆっくりとわたしの背に添えるように腕を回した。いつもなら強引にでも抱き込めるのに今はそうしないでくれている。だから今日はわたしの方から彼に強く抱き着く。
「ありがとうベック。落ち着いた」
「抱きしめていいか」
まだお伺いを立ててくれる彼の声は憂いを含んでいる。
「抱きしめて」
わたしの口からそう伝えるとやっと彼の太い腕がぎゅうと身体をしめつけてくる。
「ねェベック、さっきは勝手に勘違いして出て行っちゃってごめんね」
「構わねェよ。もともと勘違いさせるような真似したおれの落ち度だ。それよりも本当に大事ないのか」
 わたしを気遣ってばかりの優しい彼がどうしてさっきは他の男たちと同じように思えてしまったのだろう。身体の震えはすっかり止まっていまは身体の芯から温かい。わたしたちはしばらく抱きしめ合ってから船へと戻った。
 副船長室に入ると部屋の雰囲気に似合わない可愛らしくラッピングされた小さな箱が目についた。あれが彼の買ってきた香水ということなのだろう。けれど香水なんてどうしてそんなものを彼はプレゼントに選んだのだろう。わたしは普段からあまり香水を使わない。だから尚更彼がそれを贈ろうとしてくれた意味がわからなかった。ここは正直に尋ねてみてもいいのだろうか。彼がデスクに鎮座するそれをとりにいくのをわたしはベッドの端に座って眺めていた。
 「それ香水なんでしょう?」
「あァ気に入ってくれるといいんだが」
 手渡された贈り物の紐を早速ほどいていくと可愛らしい小瓶が顔をだした。中は透明の液体で満たされている。蓋を外せばほのかに香りが広がった。
「いい香りかも……」
 甘すぎず柔らかくてどこか温もりを感じる香り。わたし好みの香りだった。部屋を飛び出す前にベックマンから香ったのとたぶん同じもの。あの時は誰とも知れぬ美人の香りかと思っていたが、まさかこれをわたしがつけてもいいのだろうか。飛びぬけた美人でもないわたしには不似合いなんじゃないかと一瞬不安がよぎる。
「おまえに一番似合うと思ったんだ。気に入ったならつけてみてくれ」
 わたしの不安を見透かしたようにベックマンは言葉巧みに誘導する。そうまで言われては断ることもできない。彼がわたしを想って選んでくれたのだからと一振り手首にかけてみる。両の手首を軽くこすり合わせてから深呼吸すると蓋を開けた時以上に香りが広がっていくのがわかった。
「これはたしかに気に入ったけど」
「そりゃよかった。たまにでいい、使ってやってくれ」
「そう、それよ。ベックはわたしがいつも香水使わないの知ってるでしょう。なのにどうして香水をくれたの?もしかして変なにおいとかしてた?」
 彼が香水をくれたその意図をやっぱり知りたくてわたしは正直に尋ねた。するとベックマンは一瞬考えるような仕草をしてからこう言った。
「そうさなァ……おまえに、マーキングしてほしいと思っちまったから、かもしれん」
「マーキング?」
思わぬ単語が飛び出してきてぎょっとしてしまう。そんなわたしを見てベックマンは諦めたように笑った。
「おまえさんはあまりおれを縛ってくれないだろう?笑ってくれて構わねェ。おれの方がもうそれに耐えられねェんだよ」
「独占欲みたいなこと?でもベックは女の人が好きでしょう。いつも女の人をはべらせてるじゃない」
彼の言っている意味がまるでわからない。沸々と怒りがわいてくる。独占欲を見せてほしいなんて言ってるくせに女の人をあんなにいつも侍らせている。とんだ屁理屈じゃないか。
「おれから寄って行ってるわけじゃねェ。向こうから寄ってくるんだ」
 これも屁理屈だ。そんなのベックならどうとでもできるに決まってる。言葉で分からせてもいいし、しつこいようなら力づくでも引っぺがせるはずなのにいつもそうしないで隣に座らせてその上もたれてくる女の髪を撫でているじゃないか。
「でも振り払わないのはベックが女好きだからでしょう。それでどうして縛ってほしいなんてことになっちゃうの。わたしが好きで縛ってほしいなんて言うならその前にベックが自分でわたしのところにくればいいだけじゃない。他の女の子なんて放っておけばいいのに!それなのにいつもベックは、」
「それが本音か」
「え?あ、」
 蓋をしていたはずの気持ちがいつの間にかあふれ出てしまっていた。彼にこんな風に面と向かって不満をぶつけるのは初めてのことだったと思う。
「ようやく言ってくれたな。おまえはおれをいや男を諦めすぎだ。もっと文句を言っていいしもっとおまえの望みをぶつけてくれ」
「……どういうこと?」
「育った環境での刷り込みみてェなもんなんだろうなァ。おまえさんは男を、性にだらしなくてどうしようもねェ生き物だと思っちまってるらしい。その上そこに文句をつけるのをどこかで恐れてる。男と性と暴力を全部ひとまとめにして覚えちまっているんだろうよ。だからさっきみてェなことを思っていても言えねェでいる」
「そんなこと」
 ないとは言い切れなかった。実際これまでも付き合った男に女性関係を問いただすようなことはしたことがなかった。男とはそういう生き物で女を穴としか思っていない。そして、わたしは彼らのもつ力の前に無力であると心の底で怯えて生きてきたのかもしれなかった。
「だってそんなこと言ったら」
「言っていいんだ。おれとおまえは対等だ。おれに怯えて黙ったりする必要はない。言ってくれ。おれを縛ってくれていいんだ」
「いいの?怒らない?」
「可愛い恋人の嫉妬に怒る必要がどこにある。それにおれ自身が頼んでいることだ。だから、な?」
そうして彼はわたしの言葉を促した。わたしは彼の言葉を信じて恐る恐る口を開く。
「あの、ね、行かないでほしい別の女の人たちのところ」
「あァ」
「できればわたしの傍にいてほしい」
「お安い御用だ」
「女の人からの誘いは断って?宴のときも」
「当然だ」
「ほんとの本当にいいの?女好きのあの副船長でしょ息苦しくならない?」
 彼はわたしが船に乗る前から既にプレイボーイとしてクルーたちからもてはやされていた。そのベックマンが本当にこんな願いを叶えてくれるのだろうか。
「おいおい、おれは女好きの副船長じゃなくおまえさんの恋人のベックマンだ。いいに決まってる」
 まだわたしの中の男に対する恐怖心全てが消えたわけではない。けれど彼がわたしの心に気づいて怯えを取り払おうとしてくれているのは胸が痛くなるほどわかった。
「この香水はおまじないだ。おまえが言葉にするのを怖いと思った時、不安になったときこれをつけてくれればいい。おれに沢山マーキングしておれがおまえのことだけを考えるようにしてくれればいい」
 香水はわたしを助けるための道具に過ぎなかった。わたしへの贈り物、それはベックマンの心そのものだった。鼻を鳴らして涙を流しはじめたわたしをみてベックマンが安心したように笑う。
 その笑顔があんまりにも優しいものだからわたしの目からはまた涙が零れ落ちていった。

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