カレンデュラ
彼とわたしは海賊だ。新世界の海に君臨する四皇の一人と呼ばれる赤髪のシャンクスその人のもとに集った海賊。一戦闘員に過ぎないわたしと副船長の彼、ベン・ベックマンはかれこれ数年にわたる恋仲にあった。今日も彼にデートのお誘いを頂いたばかり。仲は比較的良好な部類に入ると言っていいだろう。
けれど、わたしは一つの不満を抱えていた。
彼は強い。そんなのは当然付き合う前、いっそ知り合う前からわかっていたことだ。かの赤髪海賊団の副船長をやっている男が弱いはずがない。だから彼がわたしを守ろうとしてくれることは何も間違っていないのかもしれない。勿論わたしがどこぞの島娘だとかご令嬢だとかならきっとベックマンを頼りになる素敵な彼氏だと思えただろう。でもわたしは違う。わたしも彼と同じ海賊なのだ。副船長や大幹部に並び立てるほどじゃないにしろ、決してそんなにやわじゃない。
ただ最初のうちは悪い気はしていなかった。彼が守ろうとしてくれるのも特別扱いされているみたいで優越感を感じていた。それも確かな事実だ。けれど彼と長く過ごしていくうちに次第に優越感は彼への不満へと変わっていった。
素直なるなら、彼にもっと頼ってほしかった。たったそれだけのことだった。彼との力量差なんてわかりきってる。それでも彼の足を引っ張るようなかよわい女じゃない。
彼はわたしを事あるごとに甘やかそうとしてくれる。だけどわたしだって彼を甘やかしてあげられる。いつだって甘やかされるだけじゃ物足りない。海賊は欲深なのだ。彼は女海賊をまるで舐め切っている。もっと、こんなのじゃ足りない。わたしだって愛してるのに。もっと頼ってくれたっていいじゃないか。そう思い始めたらいつの間にかそれが彼への密かな不満に変じてしまった。
そして今日も彼はわたしを甘やかす。
「ナマエ、今日このあと予定はあるか?」
帳簿作業に勤しむわたしの部屋を訪れてベックは開口一番にそう尋ねた。
「折角の陸だしどっか行こうと思ってたんだけど」
「だけど?」
「もうすぐ日が暮れそうじゃない。目ぼしい店はもう閉まってるかなって」
「そうだな。で、つまり予定はないってことでいいな」
「いいけど。夜になったら酒場でみんなと呑みでしょ? もうあんまり時間なくない?」
首を傾げるわたしをよそにベックマンは口端をあげて笑みを作る。
「その少しの時間でいい。おれにくれないか」
差し出された分厚い手のひら。返事をする代わりにわたしは自分の手を重ねた。
「ありがとうよ。さァ時間が惜しいなァ。ちょいと我慢してくれよ」
そう言うとベックマンはわたしの腕を強く引いた。されるがまま彼に身を預けると膝裏に腕が回される。あっという間にお姫様抱っこの出来上がり。
「それでわたしはどこへ連れて行ってもらえるのかしら」
「着いてからのお楽しみ、だ」
見上げたさきの彼の表情はいつも通り自信に満ち溢れて見えた。
「期待してるわ」
部屋の扉を足で開けて外へと向かう行儀の悪い彼。その頬にキスを送った。背後には綺麗な夕陽が煌めていた。
彼の腕の中から見えた景色は、けれどすぐに後ろへと遠ざかっていく。
「遠いの?」
「あァすこしだけな。っと、舌かむなよ」
そんなことを言う間にもう港の端から端までやってきていた。首を回して行く先を見通してみる。いくつかの岩場が見えた。確かにこれは彼の腕の中といえど揺れそうだ。大人しく口をつぐんだわたしを確認してか彼は更にスピードを上げる。ベックマンは風を受けて飛ぶように走った。
「さァ着いたぜ。お姫様」
そっと降ろされた先は砂浜。そして視界いっぱいに広がるのは静かに波打つ海と沈み行く太陽だった。この日は雲一つなく空は澄み渡って一層美しく見えた。時折吹く風が心地いい。そういえばこの島ではサンセットビーチが名所だと聞いてたことを思い出した。
毎日海で過ごして海に暮れ行く太陽も見慣れているはずなのに不思議と綺麗だと思った。いつものうるさい男どもの声がないからかもしれない。気づいてみれば周りに街の人の姿はない。
「綺麗、それに静かで。いい場所だね」
岩場の向こうからははしゃぐような人々の声が遠く聞こえてきたがここにはわたしとベックマンの二人しかいなかった。
「気に入ってくれたか」
「ええもちろん。それに、今までベックが選んだものでわたしの気に入らないものなんてなかったでしょう」
「だが今回は違うかもしれねェだろう。おれはおまえのその顔を見るまでは安心出来ねェのさ」
いつだって自信ありげに見える彼もそんなことを思うのかと優越感に浸ってしまいそうだった。
「そういえば、こんなところいつ知ったの?」
「前に来た時にすこしな」
「あ、女の子と来たんだ」
「安心しろ。連れてきたのはお前がはじめてだよ」
笑ってわたしの頭を撫でる彼の言葉を仕方なくわたしは信じてあげることにした。
「そんなことより」
また彼がわたしに手を差し出す。それに応じてわたしも手を重ねる。二人は日が沈みきるまでじゃれあって波打ち際を歩いた。とても穏やかな時間だった。しかし美しかった景色も次第に暗い闇に覆われていく。
「明日からは例の護衛だっけ」
まだ海水に足を浸して遊ぶわたしの横で彼が少し身をこわばらせたような気がした。
「……誰に聞いた。いやいい、どうせお頭あたりだろう」
「あはは当たり」
辺りは暗闇に包まれ繋いだ手だけが隣にいる相手の存在をみつける手綱となっていた。それでももう少しベックマンとの時間を堪能していたかった。もう少しだけ深くまで足を浸してみようかと海中へ一歩踏み込む。
ふいに彼女が波に攫われるような気がしてベックマンは手に力を込めた。
「なァに?」
彼女が微笑んだのが暗闇の中でも伝わってくる。ベックマンは密かに安堵の息を吐いた。
「護衛は明日一日だけだ。夜には戻れることになってる。終わったらおまえのところにすっ飛んで帰るからそれまでいい子で待っていてくれ。あァ、先に眠ってくれるなよ?」
彼女のこめかみに口づけた。くすぐったそうに笑ったのが気配でわかる。ベックマンは彼女が傍居ることを実感するようにもう一度、今度はその唇へキスを送った。
この島をナワバリにしたのはもう何年も前のことになる。物資補給にために偶然寄港しただけだった。だが丁度そのときこの島と険悪な関係にある隣島の有力者との会談が組まれていた。当時近海で名をあげはじめていた海賊団を隣島の連中が雇ったと噂になり、それならばと偶然寄港していた赤髪海賊団に護衛として白羽の矢が立った。
島に滞在する以上、有力者に恩を売って置くに越したことは無いだろうと赤髪海賊団はその依頼を受けることにした。と言ってもあくまで護衛、あからさまに海賊として名と顔の知れ渡ったシャンクスを行かせるわけにもいくまいとベックマンがその任に当たることになった。
護衛らしく黒いスーツに身を包み、黒いグローブを着けたベックマンは確かに強面のシークレットサービスを感じさせる出で立ちだった。
「さっすがベック男前だこと」
「……褒め言葉として受け取って置こう」
溜息まじりにネクタイを整えるベックマンはあまりこの仕事に気が進んでいない様子だった。
「気乗りしない?」
「まァな」
「でも向こうがまたベックマンさんにお願いしたいってご指名なんでしょう」
「そこが妙に引っかかる」
「でもホンゴウさんの調査じゃ別にうちに悪さしようってんじゃないらしいじゃない」
今朝ホンゴウさんに見せてもらった調査資料によれば今日は隣島との会談とパーティがあるらしい。きな臭い金の流れがあるわけでもなく、物騒な輩が背後に動いている情報もなかった。いたって簡単な護衛の仕事だろう。
「あァ」
「……ご令嬢が可愛いからってあんまりよそ見しないで真っ直ぐ帰ってきてよね」
護衛対象は前回と同じく島の有力者の娘さんらしい。わたしはそのご令嬢がベックマンを指名してきたんじゃないかと思う。
「仰せのままに」
そう言って恭しく手をとり口づける姿はやはり妙に様になってみえた。思わずなにも言えずにいるとベックマンがそれに気づいてウインクまでしてきた。本当にズルい男だ。
「じゃあ行ってくる」
「ん、いってらっしゃい」
そうして送りだされたベックマンはいま、例のご令嬢の傍らに侍り移動する車中にあった。無駄に豪奢な馬車に乗っているのはベックマンとご令嬢の二人だけだった。
「わざわざ来てもらってすまないねェ、ベックマンさん。今回はこの娘だけで出ることになっているんだ。先代は二年前に急死しちまって叔父のわしが出ても良かったんだがこの娘がもう一人で大丈夫だからって言い張るもんで。あとはよろしく頼むよ」
屋敷の前でそんな言葉を聞かされいよいよ妙だとベックマンは感じ始めていた。ホンゴウの調査資料には先代の死こそ書かれていたが、急死ではなく老衰と病によるものだったとあった。ささいな情報の食い違いだったがベックマンはこのとき普段以上に注意してかかるべきと判断した。
静かに口を閉ざしたままのベックマンに対して令嬢はきゃらきゃらと車内を明るい声で満たす。
「ベック様がまたこうしていらしてくださるなんて! 本当にありがとうございます。わたくしあなたをずっとお待ちしておりましたの!」
隣島まではもうすこし時間がかかりそうだった。まだ馬車は島と島を繋ぐ橋の中ほどを走っている。
「そりゃどうも」
短くそう返す。ベックマンが女性に対するにしては珍しく無愛想な返事。ベックマンがあからさまに線引きをせざるをえないと感じるほどに彼女の語りっぷりには異質なものがあった。道中、いかに自分がベックマンを慕い待っていたか令嬢は熱烈に語って聞かせつづける。
「わたくし本当にベック様のこと一日千秋の思いでお待ちしておりましたのよ」
「まさかあの時のお嬢さまにここまで言っていただけるとはな。光栄だよ」
「あァ! またベック様にお嬢様などと呼んでいただけるだなんて。お待ちしていた甲斐がありましたわ。わたくしあのときの言いつけを守って立派な淑女になるために努力してまいりましたの! ですからきっと……その、今度こそ! ベック様のお眼鏡にかなうと思いますの」
あのときの言いつけ、と言われてベックマンは以前彼女と交わした会話を思い出す。
「べっくさま、わたくしの夫になってくださいまし!」
「夫ときたか。あーだがなァそいつはすこし早すぎる。焦る必要はないんだお嬢さまよ。例えば次にまたおれたちがここに来る頃にはお嬢さまは立派な淑女になっているだろうさ。だけどな、その時にはきっとおまえさんだけのいい男が見つかっているはずだ。おれたちなんか目じゃないくらいのいい男がおまえさんをこの先の人生どこかで待ってる。だから今はさよならだ」
あの会話をどう切り取ったのか淑女になれば見込みがある、と彼女の記憶の中ではそうなってしまったらしい。
「お嬢様あれはだな」
「申し訳ございませんベック様、もうすぐ到着いたしますわ」
令嬢は窓の外に目をやって会話を中断する。ベックマンは先に馬車から降り周囲を確認するとドアを開き恭しく手を差し出した。
「……では、お手をどうぞお嬢様」
ここからのベックマンは彼女の護衛。海賊ではなく令嬢のしもべとして振る舞う必要がある。穏便に会談を済ませたいがために形上ベックマンは彼女の側仕えという役割を演じることを余儀なくされていた。
「本日はようこそお越しくださいました」
迎えられた屋敷は立派なものでその意匠からは古くから栄えた家であることが感じられる。二階の一室に通された令嬢は挨拶もそこそこに島の漁業者の権利範囲や交易の取り決めについてなど次々と多岐に渡る議論を重ねていった。ベックマンは周囲を警戒しつつ部屋の出入り口でただ立って待つばかりだった。なにか得られる情報があればと聞き耳を立てていたがこれといって真新しいものはなく、ただ令嬢の弁の立つことに密かに眉をひそめた。ベックマンとの道中の会話ではそれらしさは全く感じさせなかったがどうも根回しや議論の進め方が堂に入っている。端的に言えば策略に長けた人間のやり口だった。
会談は予定されていた二時間という時間を大幅に短縮して一時間で終えることになった。それは令嬢の手腕によるところが大きく、ほとんど全ての議題において彼女の提案が受け入れられる形となっていた。
「ベック様お待たせいたしました。このあと休憩をはさんでからパーティに出席して本日の行程は終わりとなります。パーティの際には毒見などもお願いすることになっておりましたよね。そのような必要はないとわたくしは考えているのですが」
「いいや、できる対策はすべて打っておくべきだろう。違うか?」
「それは……そうですわね。改めてお願い申し上げます」
「あァ」
彼女の言う通り毒見するまでもなくこの会場に彼女を狙う気配はまったくないことにはベックマンも気づいていた。しかし仕事は仕事、万全を期すに越したことは無いとベックマンは自ら毒見を申し出た。この時すでに全てが彼女の手のうちあるとも知らずに……
パーティに出された食事は豪華であると同時にこの島の特産品が多く用いられていた。奇怪な形をしているが香しい匂いを放つ果物の盛り合わせ、この島でしか取れない穀物を餌に育てられたという一等柔らかい肉質の牛肉、三日三晩煮だして漉してを繰り返しつくられた黄金のスープ、どれもこれも数日前から仕込まれていたものや早朝採れたてのものばかり。
「こちらの毒見もお願いできますか」
「あァ、かしてくれ」
匂いを確認し色を確認する。それから口に運んで味に異変がないか確認する。単調な作業として一通りの食事の味見を済ませた。どれも薬や毒が仕込まれた様子はない。勿論飲み物やグラス、食器類にも注意を払った。
「大丈夫そうですか」
心配そうに尋ねてくる令嬢に問題ないと返してやると彼女はにこりと笑顔になって、よかったとつぶやいた。チラチラとこちらを窺う彼女はどこか挙動不審にみえなくもなかったがこの食事は全て隣島の当主が用意したものだという。そこに彼女が何か仕組むことはできまい。それに先ほどの会談から察するに彼女はあの島の有力者一家代表として平穏に事を運ぶべくよくやっているようだった。今更赤髪を海賊として追い立てたり妙な企てをたてるとは思えなかった。
「ありがとうございます。パーティですからベック様もあまりかしこまらずにお食事をつまんでくださって構いませんので。一応わたくしの護衛として傍にはいていただきますが」
「そうか。ならありがたく貰っておこう。実はすこし腹が減っていてな」
「まァ! そうは見えませんでしたわ。それならこのお肉に特産のジュレをかけたものが絶品ですので是非お食べになってください」
「あァ毒見したときもそいつはうまかったなァ」
令嬢がプレートに載せてきた肉とジュレをベックマンはひと口にほおばる。ベックマンがごくりと飲み込むのを見届けると、令嬢はまた次は是非これをと新たな品を勧めてくる。断るわけにもいかず幾品かベックマンも相伴に預かることになった。令嬢からの無邪気な食事攻撃はパーティ参加者たちが彼女への挨拶に列を成す頃まで続いた。
彼女が参加者たちと挨拶を交わすのをベックマンは壁際にもたれて眺めていた。従者としてやってきているため煙草を吸うこともままならない。どうにか気分転換をしたいと考え始めたときだった。庭に面して開け放たれた両開きの大きなガラス扉から風が吹いてくる。ベックマンにはその風が冷たくて心地よかった。パーティ会場から抜けることもなく彼女に付きっきりだったせいで会場にこもる熱気に気づかなかったようだ。ほうと息を吐くと幾分か楽になるような気がした。
パーティはつつがなく終わりを迎えた。きらびやかな会場をようやく後にしてベックマンと令嬢は来た時と同じく馬車に乗り込んだ。
「さすがに少々疲れましたわ。妙に熱気もこもっていた気がしますし……ベック様、窓をすこし開けてもよろしいですか」
顔をぱたぱたと手で仰ぎながら彼女がそう言った。
「あァいくつか締まっている窓もあったせいだろうが少し暑かったなァ」
「ベック様もそうでしたのね」
ベックマンが馬車の窓を下げている間に令嬢のこぼした言葉は何ら変哲のないものだったがその実、彼女の表情には喜悦が混じっていた。ベックマンはそれに気づくいていない。彼は片方の窓を下げ終えると反対の窓も下げようと腕を伸ばす。
「お帰りになる前に報酬の受け渡しなどございますのでこのあとうちの屋敷で少々お待ちくださいね」
「あァ、報酬か。ありがたくいただいていくよ」
疲れが出たのか行きの時とは違って随分と静かな帰り道となった。ガタガタと移動に揺れる音だけが二人の間に響いていた。
昼過ぎに出発した二人だったが帰る頃にはすっかり日も傾き始めていた。
「それではベック様はこちらのお部屋で少々お待ちくださいませ」
屋敷に帰りつくなり多少奥まった部屋に案内されベックマンはそこで待つことになった。奥まった部屋とはいえここは依頼についてやりとりをした際にも何度か通されていたためベックマンはなにも不審に思うことなくそなえつけのソファに腰を下ろした。
そして案内された際に用意された島特産のお茶をひとくち、ふたくちと飲み込んだ時だった。明らかに身体に異常が現れ始めたのは。それは初め軽い酩酊感から始まった、次第に頭がくらくらしてきて思考はまとまりを失っていく。身体はいつの間にか熱く火照り、呼吸も浅くしなければ自身を保てないほどになっていた。
おかしい。この茶は以前にも出されたが何も起きなかったはずだ。途切れ途切れの思考をかき集めようとベックマンはもがく。以前出されたものと色も匂いも味も何もかも変わらない。害のないものだと判断したから口にしたはずだった。それなのにベックマンの身体の芯はその熱を主張している。ぐるりと回り始めた視界の中ベックマンが最後に見たのは令嬢の狂気的な微笑みだった。
ベックマンが目を覚ますとそこは暗い独房のような場所だった。手足は鎖で繋がれ自由はない。
「お目覚めですか」
耳に届いた声のもとをたどって視線をさまよわせる。そこにはあの令嬢がベックマンを見下ろすように立っていた。
「無事に〝効いた〟ようで安心いたしました」
「っはァ、仕組まれたってわけか。しらべが甘ェって。ふ、あとで文句つけてやらねェとッなァ」
ナワバリの島と思って油断したつもりはなかったがどうやらベックマンはしてやられたらしかった。
「あまり叱らないであげてくださいな。わたくしの狙いはあなたさまただ一人でしたもの。海賊団を狙ったものではございませんし、この計画も数年来あたためていたものですからおいそれとばれるはずがありませんわ」
同情するように眉を下げて彼女はベックマンに語りかける。
「それよりも、お辛くはありませんか?」
「あァ?」
「まァこわい。媚薬、のようなものですの。この島の食料のちょっとした食べ合わせで強力な催淫効果を発揮するというものでして。といってもいまのベック様には半分も理解できませんわよね」
「ッはあ、あァ? あァ、は、ふ」
ベックマンは辛うじて彼女を睨みつけてはいるもののその思考はやはり十全に回っているとは言い難いものだった。ふう、ふう、と息を吐き出すのもやっとという様子。ベックマンは熱に侵されていた。
「わたくしが楽にして差し上げましょうか?」
令嬢は優雅に微笑む。
「ッさわるな」
獣が唸る。
「おれに。ふれていいのはナマエだけ、なんで、なァ。ァ、は、はァ」
ベックマンの口端からは涎がぼたぼたと滴り落ちる。彼は獣性を剥き出しにしながらも頑として拒絶した。
「面白くないですね」
白く細い指がベックマンの喉をなぞった。
その指に嚙みつかんばかりに飛び掛かろうとするベックマンを鎖が引き留めるたびガシャンと無機質な音が鳴り響いた。
しかし令嬢が優雅な微笑みをたたえている時間はそう長くは続かなかった。ベックマンの捕えられた独房からは外の様子は見えないが時刻にして十九時を過ぎようとしてた。空は暗く、すっかり夜へと移り変わっていた。
ガンガンガン、ガンガンガン。玄関扉を乱暴に叩く音が令嬢の耳に届いた。
「なんですか? いまとってもイイところですのに」
「すみませーん、急用がありましてー。どなたかいらっしゃいませんかァ」
その声はベックマンにとって聞きなれた人物のものだった。
「ナマエ……」
ベックマンの呟きを聞き逃さなかった令嬢は相手をなんとしても追い返さなければと傍に控えていた使用人に指示をだす。使用人は玄関へと向かうとドアを開けて応対した。
「申し訳ございません。お嬢様はまだお戻りになられていらっしゃらないのです。明日出直してくださいますか」
おどおどと伝える使用人を一瞥してナマエはそのまま玄関から中に入り込む。
「ああ! 駄目です勝手にお入りになられては!」
使用人が後ろから取りすがるのを無視してナマエは真っ直ぐに地下室へと向かう階段を探し始めた。令嬢のもとにも階上の声が聞こえてくる。
「ベック! ここにいるんでしょう!」
きっぱりと言い切ったその女の声は次第に近づいてくる。
「ほうらやっぱりいるじゃない。ってちょっとベック!」
鎖につながれ息を荒げるベックマンに衝撃を受けたのも束の間彼女は目の前の令嬢へと視線を移す。
「勝手に入ってくるだなんて野蛮な女ですわね。折角ベック様がわたくしのものになるところでしたのに。どうして彼がここにいるとわかったの? まだ護衛任務中だとは思いませんでしたの?」
口惜し気に言う令嬢を見据えると彼女はそれに答えてやった。
「ベックマンは確かに今日あなたの護衛に行くといったけれど、同時に夜には帰ると言った。それなのに彼が私のもとへ来なかったから探しに来ただけのこと」
「時間がかかっているとは思わなかったのかしら」
「あァ、あなたは知らないだろうけどね、ベックマンがわたしとの約束に遅れたことなんて一度もないの。まして守るつもりのない約束もわたし相手にはしない、わたしにだけはちゃんと言ったことを守る男なのよ」
令嬢はその言葉を聞いて憎々し気に顔を歪めると大声をあげて使用人たちを呼びよせて言った。
「この女を始末してしまいなさい!」
けれど、彼女とて赤髪海賊団の戦闘員、一般人相手に負ける道理などどこにもなかった。十はいたであろう使用人の男たちを彼女はいとも簡単に制圧してしまった。
「じゃ、返してもらうから」
「あなたなんて、あなたなんてェ!」
激昂して言葉を繰り返す令嬢を物理で黙らせると彼女はベックマンに駆け寄る。一目で彼の身体が異常な状態であることは察せられた。転がっていた使用人の懐から鍵を拝借しベックマンを自由の身にした。だが、ベックマンは自身で身体を支えることができずずるりと彼女にしなだれかかってきた。
「あつッ」
「……は、びやく、らしい」
「もう少し我慢して」
端的にそれだけ言った男を担ぎ直して彼女は盛大に溜息をついた。寄りにもよってこの男に媚薬だなんてどうしてくれるのだ。ナマエはベックマンを引きずるようにしてどうにか街の宿まで向かうことにした。
翌日、ナマエが目を覚ましたのは昼のことだった。
「痛い……」
起き抜けにそうつぶやいた彼女の横ではベックマンが甲斐甲斐しく世話をしている。
「……すまん。世話をかけた」
バツの悪そうな表情のベックマンという世にも珍しいものを視界に収めながら彼女はベックマンからことのあらましを聞くことになった。
「ふうん。でベックマンはちゃんと貞操を守ったってわけねェ。えらいえらい」
「そう虐めてくれるな」
本当に反省しているらしいベックマンを横目にナマエは話を切り出す。
「でもこれでいいお灸になったんじゃない? わたしだってあなたのこと守ってあげられるときあるのよ。わかった? 守られてばっかりの、そうねェ『ご令嬢』じゃあるまいし。たまにはわたしのこと頼ったり甘えたりしていいんだからね」
「あァ、今回は本当に助かった。おれの女はやっぱり欲深な女海賊じゃなきゃ困るってよくわかったよ」
「ふふん、褒め言葉として受け取ってあげましょう」
「ははそうしてくれ。さて、それじゃあおれとしては早速おまえさんに甘えたいわけなんだが、許してくれるか?」
いつの間にかベッドに乗り上げたベックマンが鼻を摺り寄せてくる。
「甘えるってそういうことじゃないんだけど?」
「わかってるよ。昨日優しくシてやれなかった分の挽回をさせてくれ」
「い、いらない……」
「おまえのものだって実感させてくれないのか?」
「その言い方はちょっとズルいと思う」
「ズルくて結構だ」
そう言うなりかぷりと鼻を甘噛みしたベックマン。その顔はくしゃりと破顔していた。