落ちる

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落ちる

 穏やかな数日間だった。この偉大なる航路では逆に珍しいくらい本当に何も起きずに平和な航行が続いていた。こうして時たま海賊にも休息が与えられる。天とは不思議なものだなどとてきとうなことを考えていると「おい」と声をかけられた。
「副船長。なにか?」
「なにかとはご挨拶だな」
 笑って煙草を蒸かす副船長は今日もかっこいい。おまえさんは本当にツレねェなァと冗談めかして肩をすくめる姿さえ様になって見える。けれどそんな私の思いは彼には届いていない。片思いも年季が入ってくると徐々に好いた相手に感情を隠すのがうまくなっていくものらしい。
「この静かな海域もじきに抜けるからな。あんまり呆けてると海に放り出されるぞ」
「わたしそんなにボケッとして見えました?」
「前にも似たようなことがあったからな念のためだよ」
 強面に似合わずけたけたと笑う副船長の言葉に私は数年前の出来事を思い出す。
 あの日もこんな穏やかな日が続いていて私は煙草を吸う副船長の背中をぼんやりと視界に収めて恋煩いの溜息などをついていた。天候が急変したのは瞬きをした一瞬の間に起きたようにすら思えた実際のところスネイクさんに注意しとけよと周知されていたので本来気づけたはずの変化だった。しかし間抜けにも船べりにもたれていた私の身体は船体の揺れに合わせてあっという間に宙へと投げ出され、落ちると気づいたとき無意識に伸ばした手は空を掴んでそれきり水面に打ち付けられてしまった。どうすることもできずがぼがぼ海水を飲み込み溺れ死にかけたところを寸でのところで副船長に助けられた。
「あれで十分に身に沁みましたから。今回は大丈夫ですよ!」
 胸をはってそう答えると副船長は落ち着いたいつもの声で言った。
「あの時は肝が冷えた。他の男に搔っ攫われないように注意を払っちゃいたが当のおまえさんは波に攫われちまってなァ」
 いま、なにか冗談めかしてとんでもないことを言われた気がする。
「海賊が大事な宝を海に盗られちゃとんだ笑い話だろ? おまえさんだけは誰にも渡さねェし渡せないと思ってたんだがまさか海が相手になるたァな。おれでも想定外だったさ」
「た、たから?」
「あァ、おれにとっての宝だ。もうそろそろすっかりおれに落ちてくれた頃かと思っているんだが見込み違いだったか?」
 口端を釣り上げて笑うその表情は間違いなく狙いを定めたときの彼の表情で、彼の言葉がどれも冗談なんかではないことを教えてくる。
「ま、せいぜい待っているよ。おまえさんが頷いてくれるのをお利口に、な」
 この勝気な笑みに私は心底弱くて、どうしようもなくうなずく以外の選択はできそうもなかった。

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