溜息

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溜息

 会いたいと思えば思うほど胸が押し潰されるように痛くなる。覆いかぶさって目の前で腰を振る男はいつだって彼女の想い人ではない。彼であればどんなによかっただろうと思っては虚しさに涙が零れ落ちた。それでも欲を発散しようと、あるいは彼が少しでも気にかけてくれればいいのにと当てつけのように、彼女は男遊びをやめることができなくなっていた。
 男遊びを始めた頃のきっかけはなんだっただろう。たぶん若いころはそういう遊びができる女をかっこいい女だと勘違いしていたせいだと思う。粋がって色んな男と遊んで時には危ない目にもあった。そうやって経験だけは豊富になって遊びの目的がただのストレス発散に成り下がった頃、行き遅れのわたしは赤髪海賊団の女海賊として名をあげはじめていた。
 この船のクルーになったときから耳にタコができるほど言われた言葉はこうだった。
「いいか? 副船長にだけは注意しろよ。あいつは筋金入りのすけこましだからな!」
 そのときは相手ならいくらでもいるのに副船長をなんて馬鹿な気おこすわけないと思っていた。だから笑ってわかっていると答えたものだ。それがいつからだろう。笑いが誤魔化すためのものに変わっていたのは。
 こともあろうにわたしは副船長、ベン・ベックマンに惚れてしまった。けれど、もう素直に可愛らしい恋愛をできるような女じゃなかった。
 あれほど見慣れていた彼の女遊び。だけど彼への想いを自覚して以来それを見るのが嫌になってしまった。そしてわたしはたまったフラストレーションをこれまで以上に行きずりの男との逢瀬で消化するようになった。
 これじゃベックマンのことを言えたものじゃないなと苦笑する。正しい恋の仕方をわたしはすっかり忘れてしまったらしい。アピールすることもまして告白することもできないわたしの唯一の慰めは、彼が誰のものにもならずに遊び続けていることだけだった。遊ぶ彼の姿見たくなさに男に逃げておきながら、遊ぶ彼に安堵してもいる。我ながら支離滅裂だ。それでもわたしはベックマンを好きでいることをやめられなかった。
 しかしそんな不毛な日々を送っていたわたしに転機が訪れることになる。
 
「船を降りるのか?」
 ベックマンからの急な問いにこのときわたしは思わず笑ってしまった。
「なに? そんな話出てるの?」
 けれど、そのあとに続いた彼の言葉をきいて冷水を浴びせかけられたように心がしぼんでいくのが分かった。
「降りるのはあの男のためか」
「さあね、ベックはどっちがいい? 降りてほしい? 降りてほしくない?」
「おれの決めることじゃねェだろう」
「……そうだよね。あんたならそう言ってくれると思った流石副船長だわ」
 降りるなとは言ってくれなかった。この船の副船長らしい答えが無性に寂しい。彼女はささくれだった心を慰めるため、島で出会った青年のもとを訪れることに決めるのだが。そもそもベックマンが彼女に尋ねたことの発端、それは島でのとある出来事だった。
 
 赤髪海賊団がナワバリにしている平穏な島。そこを数か月間拠点として航海をすることが決まっていた。久しぶりに立ち寄ったその島は農耕地が目立つのどかな場所だった。酒場と娼館が一軒ずつあるがいわゆる夜の街らしいものが存在していない。そんな場所だった。
 それでもチンピラというのはどこにでも湧き出てくるものらしい。島への滞在三日目の昼のことだった。
「おいテメェどこに目つけてんだよ。ぶつかってきといてなにもなしかよ? ああ?」
「す、すみません」
 典型的な当たり屋じみたやり口で気弱そうな青年に詰め寄る若い男の姿が目に入った。
「謝って済むとでも思ってんのかよ? それなりの誠意ってやつがあんだろうが?」
「え、ええと」
「わかんねーのかよ! 金だよ金出せ」
 あんなせこくてダサい真似よくできるなと思って眺めているとその視線が気に障ったのかチンピラがこちらを標的として近寄ってきた。
「おい何ガンつけてんだァ? 見せもんじゃねぇぞ!」
 女と思って舐められては困る。こちとら凶状もちの海賊、チンピラにやられてあげるわけにはいかない。当然こちらが獲物を取り出すまでもなく勝敗は決した。ケツをまくって逃げるチンピラの後ろ姿がその結果だ。
「あの! ありがとうございます」
 どさくさに紛れて逃げるでもなくまだそこに立ちつくしていたのは先ほど絡まれていた青年だった。
「なにかお礼をしたいんですけど……」
 そう言い募る青年はわたしが普段相手にしないタイプの物静かで真面目そうな顔をしている。
「気にしないでいいよ」
 君あんまりタイプじゃないしという言葉は飲み込んでそう答える。
「でもあの……そうだ! あそこのカフェなんかどうですか! おごらせてください」
 きらきらと目を輝かせるこの青年に下心がないことは一目瞭然だった。どうか! と言葉を続ける彼にわたしが折れる形となりわたしたちはそのカフェへと入ることにした。
 
「僕、実は付き合っている女の子がいるんですけどうまくいっていなくて……」
 なぜか例の青年から恋愛相談を受けている。話題がみつからず適当に話を振ったのがまずかったのかもしれない。神妙な面持ちで青年は語る。
「お姉さんならどう思いますか? やっぱり弱くて頼りない僕みたいな男ごめんですよね」
「強けりゃいいってもんでもないんじゃない? キミみたいな誠実そうな男の子の方が断然信頼できるし彼氏にするなら最高だと思うわよ。浮気もしそうにないから満点ね」
「あの、もしかしてお姉さんの恋人は浮気性なんですか?」
「え? ああ違うの恋人なんかじゃなくて」
 話すつもりなんかなかった。こんなことをまして出会ったばかりの他人になんて。もうこのまま一生想いを溜め込んでいくしかないんだと思っていたのに。案外何も知らない人間相手の方が話しすやいなんて話もきいたことはあったけれどどうやら本当だったらしい。つい、わたしがある男に長年片思いを続けていることやアプローチできずに他の男に逃げ続けてしまっていること、彼が女遊びするタイプであることなどすっかり全部話してしまった。
「ほんと不毛よね、自分でもわかってるつもりなんだけど。ごめんなさいね、つまらない話でしょう?」
「そんなこと……! 僕も彼女に長年片思いをしていたから少しは気持ちわかります。僕でよければその男性とのこと話してください」
 わたしのつまらない話を面倒がるでもなく彼はそのまま話を聞いてくれた。こんなに優しくて聞き上手の青年ならきっと彼女さんともうまくやれれるだろうなと思いながらわたしは話を聞いてもらうことにした。
「それはお辛かったですよね」
 彼のその言葉をきいて目から鱗が落ちるようだった。そうかわたしは辛かったのか、と。気づくと涙が零れ落ちていた。
「あっごごめんなさい僕無理にお話きいてしまって!」
 涙で歪む視界の先で青年がわたわたと慌てているのがみえて笑ってしまう。
「辛いとか今まであんまり感じてなかったはずなんだけどね、いざ言われてみたらそうだったのかもって思っちゃってさ。なんか今更泣けてきちゃったみたい。ごめんねすぐ止めるから。ほんとちょっとごめんね」
 けれどそう言いながらも涙は止まってくれなかった。
「……きっとずっと我慢してきたんですね」
「我慢? そうなのかな、はは。ごめんね急にこんな」
「僕のことなら気にしないでください、泣きたいときは泣いちゃったほうがいいって僕も彼女にいつも言われてますから!」
「ふふ。素敵な彼女さんね」
 その後も涙は止まることなく初対面の青年の前でわたしはぽろぽろと涙を流し続けた。
「今日はありがとう、おかげで随分スッキリしたみたい!」
「いえ! 僕もアドバイス通り彼女とちゃんと話してみます!」
「じゃあまたね」
 空が朱色に染まり始めたのを合図にわたしたちは長話をおえてお別れした。近年まれにみる有意義な時間だった。
 その後も島にいるあいだに何度か彼やその彼女さんとも会ってすっかりわたしたちは仲良くランチを共にする仲になっていった。
 
 島への滞在三週間目。その夜、島の酒場では赤髪海賊団の宴が開かれていた。誰もが騒がしく参加する中、ひとりのクルーだけがその場にいなかった。席を外していたのは紅一点だった。今夜彼女は島で仲良くなった友人の家に遊びにいくといって宴に参加していなかった。
 そんな中、クルーの中でも若手たちのグループの間である噂話が持ち上がっていた。
「姐さん船下りちまうのかなァ」
「まさか姐さんが下りるわけねェよ。いつもの男遊びだろ?」
「でも姐さんあの男の前で泣いてなかったか? どうせ今日だってこっちじゃなくてその男友達ってやつ優先したから来てねェんだろ。それだけ本気ってことなんじゃ……」
「ほお。そいつは面白そうな話だな。おれも混ぜてくれ」
 男たちの席がしんと静まる。まさかこんな話に副船長が食いついてくるとは思っていなかったのだから。
 若手クルーたちから話を聞きだしたベックマンはひとり酒場を抜け出すと店の壁にもたれて煙草を蒸かした。騒がしい店内は考え事をするのに向いていない。吐き出した煙に混ざるのは深い溜息だった。
 ナマエは赤髪海賊団のいちクルーに過ぎない。それ以上でも以下でもなくただ仲間として接してきたつもりだ。それは当初、同じ船にのる相手とどうこうなるなんてこじれた時面倒だろうと考えていたからだ。しかし、彼女が船にのって随分経ってからも彼女を女としてみてこなかったのは彼女を自分と同類の遊び人だと理解したからだった。
 彼女もおれと同じようにこじれた時のリスクがある船上での関係より陸での快楽の方がよっぽど勝ると考えているようだった。彼女の振る舞いや性格をみて向こうも遊び慣れているらしいと理解するのにそう時間はかからなかった。
 だからこそやはり彼女のことを女として以上に仲間として扱うように心がけたてきたはずだった。けれど今ベックマンは妙な、焦燥感にも似た、胸騒ぎを感じていた。
 まさかナマエが誰かひとりのもになるなんて。そんなたまじゃねェだろう。あいつが船を降りるなんてありえない、どうせ今回も遊びだろう。そう思えば思うほどなぜか思考とは反対に胸騒ぎがするのだった。
 翌日、ナマエは例の青年とその彼女とともにカフェに来ていた。案内されたのはテラス席。晴れた空の下でわたしたちはメニューとにらめっこしながら話し出す。
「わたしお邪魔じゃない?」
「「そんなことないです!」」
 男女の力強い声が重なって聞こえてきて思わず笑ってしまう。
「本当にお似合いのカップルね。じゃあお言葉に甘えて」
 最初に出会ったあと青年は彼女とうまくいったらしく今ではこうして彼女も交えて三人でランチをする仲になっていた。この三週間ですっかり打ち解けた三人の席は笑いが絶えない。
「それでナマエさんの想い人は? 近況はどうなんですか?」
 そう切り出されて思わず苦笑する。近況も何も変わりはない。変えるつもりもないのだから。
「やっぱり諦めちゃった方がいいのかなァ」
「またそんなこと言って。本当は諦めきれないんでしょう」
 ズバリ心の内を言い当てられて言葉に詰まる。
「愚痴でもなんでもいっぱい話してくださいよ! 我慢しないで! もし泣きたかったらどーんと泣いちゃった方がいいんですから!」
 聞き覚えのある台詞に笑いが零れる。流石あの青年の彼女ちゃんだななんて考えているうちに自然と涙がこみあげてきた。
「あーもうなんで、ッあの人のこと好きになっちゃったんだろ……」
 嗚咽の合間に言葉を継いでいく。
「うわああほんどにごめんね二人とも」
 またしても彼らの前で泣いてしまった。二人とも若いのに包容力がありすぎるのではなかろうか。つい一般人の彼らを前にすると海賊らしい自分よりただの恋に失敗した女になってしまう。
「わたしたちのことは気にしないでください。ナマエさんのおかげでこうしていられるんですから」
 無事に二人がうまくいっているようで何よりだ。涙を拭いてから一度化粧室にたち、ついでに食事の払いを済ませる。
「今日は誘ってくれてありがとうね。あとは二人でゆっくり過ごして!」
 これ以上ここにいては泣きすぎてしまうかもしれない。そんな情けないことを思って私は心優しいカップルとお別れして街へと繰り出すことにした。泣いて火照っていたせいかそよぐ風が心地よかった。
 彼女が気分よく街を歩き始めた後方で一人の大男がその背を見つめていた。それまで一点に滞留していた紫煙がゆるやかに動きだす。そしてたなびく煙はどこへともなく消えていった。
 
 酒場で噂を聞いて以来ベックマンの頭にはナマエが船を降りることばかりがちらついていた。そんな折、昼下がりの眠たくなるような時間にナマエが甲板へと現れた。あの夜から数にして三日は経とうかという頃だった。
「船を降りるのか」
 話しかけたのはベックマンだった。
「なに? そんな話出てるの」
 気にした様子もなく笑う彼女にベックマンは言葉をつづけた。
「降りるのはあの男のためか」
「さあね、ベックはどっちがいい? 降りてほしい? それとも降りてほしくない?」
 からかうようなその口調からはやはり到底彼女が船を降りるとは思えなかった。
「おれの決めることじゃねェだろう」
「……そうだよね。あんたならそう言ってくれると思った流石副船長だわ。あの子とってもいいこなんだよ。優しくてさ」
「そういう割には泣かされてたじゃねェか」
 おまえともあろう女が簡単に涙なんかみせるなよとは言わなかった。
「うそ見てたの?」
「たまたま通りかかっただけだ」
 嘘だ。クルーたちの噂話を気にして翌日は彼女の姿を無意識に探していた。そうしてみてしまったのだ。彼女が泣いているところを。
「ッわたしが泣いてたらなんだっていうの。どうしようと副船長の決めることじゃないんでしょう?」
「……そう、だな」
 彼女の言い分はその通りだ。なにも言い返せない。
「じゃあわたしもう行くから」
「あの男のところにか」
 思わず言うつもりのなかった言葉が口を突いて出てしまった。
「だったらなに?」
「行くな」
 またしても言うつもりのない言葉が口から零れ落ちる。
「なんでそんなこと」
「泣かされに行こうとしてる仲間を止めようとして何が悪い。やめとけそんなろくでもねェ男。おまえさんなら他にいくらでも相手を選べるだろう?」
 存外流暢に口から出まかせが出る。けれど彼女は表情を曇らせて怒りを示した。
「あのこはどっかのプレイボーイさんよりよっぽどいい子。わたしが選んだ男をなにもしらないで悪く言わないで。それに……仲間だから止めるんだ? じゃあ仲間じゃなくなったら? 止める理由もなくなるけど?」
 なんてね、と最後に続いた言葉は少しだけ自嘲的に聞こえた気がした。
「本気か?」
「本気かですって? 副船長の方こそさっきから本気で言ってるの? なにも、彼のことも私のこともなにもしらないくせに」
 そう言い放つと彼女は船べりから飛び降りて街へと駆けて行ってしまった。
 完全に失敗だったとベックマンは自戒する。もっと冷静に話すべきだった。しかし自身を諫めると同時にベックマンは苛立ってもいた。
 あんなひょろっちいガキに泣かされてまで何がいいのか分からない。ナマエは遊び相手を見誤ったりしないやつだったはずなのにあんなやつなんかに入れあげて。そのために船を降りるだなんて。
 なにもしらない? なにもしらないだって? おれのほうがよっぽどおまえを知っている。なにが好きかなにが嫌いか。何に怒って何に喜ぶのか。間違っても泣かせたりなんて、おれなら、おまえを。おまえをちゃんと、
「……愛してやれるのにってか」
 ベックマンはようやく答えにたどり着くと独り言ちた。それから盛大に溜息をついた。遅すぎる恋の自覚に乾いた笑いをこぼすことしかできなかった。
 ナマエは街をあてもなく走っていた。怒り半分悲しさ半分の訳の分からない感情がぐるぐると渦巻いている。ベックマンがあの青年を馬鹿にするようなことを言ったのも、わたしを浅慮とでもいうように嘲ったのにも腹が立った。それと同時に仲間だから止めるなんて言いぐさにも腹が立った。
 それでも彼のことを好きでいる自分にも腹が立ったし、やっぱり彼にとっては仲間でしかないという事実がただただ辛くもあった。
 走り続けて気づくと街はずれにぽつんと建つ彫金細工の店に辿りついていた。ガラス越しに目に入った商品はどれもきらきらと輝いて胸をときめかせる。しぼんだ心に新しい空気を取りこもうと彼女は店の戸を叩いた。
 目に留まったのは指輪だった。光を反射してきらりと輝くその指輪はシンプルながらも芯の強さを思わせるものがある。
「すみません、これください」
 即断即決で手に入れたそれを身に着けるとあれほどめちゃくちゃだった心にも少しずつ余裕が戻ってきていた。冷静になった彼女はベックマンと一時距離を置こうと考える。いまは彼への想いを諦めることはまだできない。けれどいつかは諦めるために、少しづつ彼との距離を離してそれに慣れて行けばいいのだ。今すぐに全てをどうこうしようなんて考えるだけ無駄だったのだと彼女は結論づける。自分なりに答えが出てスッキリした彼女は早速今夜の宿を探すべく街へ繰り出すのだった。
 一方その頃、ベックマンも街を歩いていた。彼女への恋を自覚した今やるべきことはまず怒らせてしまった彼女のご機嫌をとることだと考え店を物色していた。しかし雑貨店はほとんど回ったがこれといったものがない。では花屋かとも考えるが彼女に花なんて贈ろうものならそれこそ花でご機嫌取り? わたしそこらのお嬢ちゃんじゃないのよ? と受け取ってもらえそうにないなと店を素通りした。
 そして別な店を探そうとあたりを見回して、街中を歩く例の男の姿を見つけた。そしてその隣にいるのはあの時カフェで彼女とともに食事をしていた女性だと気づく。つい彼らの姿を追っていくと彼らは温かみのあるクリーム色の一軒家に入っていく。窓からは明かりが漏れ出し、しばらくすると香しい夕食の匂いが漂ってくる。そこは彼らの住む家だった。それに気づいてベックマンは無意識に舌打ちをする。あの男はともに住む女がいながらナマエに手を出した。だから彼女はあの日泣いていた。これまで、目にしてきたこと全てが繋がった瞬間だった。
 翌朝、ナマエが船に戻ってきたのを見てベックマンは声をかける。
「ずいぶん遅かったな」
「どうせあなたもそうでしょ」
 待ち構えていたらしいベックマンに早速彼から距離を置く作戦が台無しになったことを悟る。
「おれのことはどうだっていいだろ」
 どうだってよくはない。むしろものすごく気にしているとは言えずに彼女はムッとした態度だけを示す。
「なにそれ」
「昨日はどうした。どうせ一人だったんだろう」
「なんでそんなこと知って」
「やっぱりな。あの男が昨日別の女といるのをみた」
「ヘェ」
 なぜベックマンが彼のことを気にするのかナマエには理解ができなかった。
「あんな男のために船を降りるのか」
「まだその話? もういいでしょ」
「待て」
 ベックマンが呼び止めた細い指には指輪が輝いている。
「指輪……はっ、あんな男と約束ってか? 結果なら見えてるどうせ捨てられてまた泣かされるのがオチだ」
 その嘲るようなものいいと自分の気も何も知らずという気持ちが彼女の中でまた爆発する。
「もう黙って。それ以上言うならたとえあなたでも許さない」
 ベックマンの手を振り払うと彼女は船室へと消えていった。
 昨日一度は落ち着いたはずの気持ちが再び荒波をたててしまった。このまま関係が悪化するならそれもまたいいのかもしれないと彼女は諦めの溜息をつく。けれど、本当はせめてただのクルーと副船長の関係でいることを許されたかったなァと思う。変に険悪になってしまったのは自分のせいでもあるとはいえ元の関係にさえ戻れないかもしれないと思うと涙が一筋頬を伝っていた。
 昼になり腹がすいて仕方なしに彼女が外へ出るとそこにはまたしてもベックマンの姿があった。思わず彼女はベックマンから目を逸らし食堂へと向かう。ただ気まずかったので彼女はそうしたのだが、ベックマンからすればすっかり無視されたという事実のみが残る。やはり朝のあれは失敗だったのだとベックマンは深く溜息をついた。
 しかし、このまま彼女と話せないまま彼女が船を降りるのを見送るのかと自問すれば答えは当然否だった。大人しく指をくわえて見送るなんてできない。彼女が部屋に戻ったのを確認して、ベックマンは祈るように扉をノックした。
「頼む話したいことがある、開けてくれるか」
 彼の声に一瞬怯んだものの彼女とて険悪なままではいたくなかった。渡りに船と思い扉を開く。
「どうぞ」
 部屋に入ったベックマンに椅子を示し彼女はベッドの端に腰を下ろした。部屋には気まずい空気が流れる。それを破ったのはベックマンだった。
 ベックマンは俯いたままの彼女に声をかける。
「こっちを向いてくれ」
 彼女はそれにすぐ応じることができなかった。泣いたとばれればまた何を言われるかわからない。けれどベックマンは懇願するような声音で畳みかける。
「頼む、顔を見せてくれ」
 そんな言われ方をして彼女はどうしても無視できなかった。
「目が赤いな。また泣いたのか」
「これは、気にしないでちょっと目がかゆくてこすっちゃっただけで」
 うまくもない言い訳を並べる。するとベックマンが遮るように言葉を差しはさんだ。
「妬けるな。そんなにあいつのことが好きなのか」
「え?」
「おれだったらそんな顔させない。おまえのことならきっとそこらの男よりよっぽど近くで長年みてきたつもりだ。なァ、おれじゃ代わりになれないか?」
「何言ってるの? なんのつもり? 副船長が女の人みんなに優しいのは知ってる。だけど、いまのってわたしが女だから言ってるの? それともわたしが仲間だから」
「どっちでもねェよ。ナマエのことが好きだからだ。惚れた女の弱みにつけこもうとしてんのさ。あの男と重ねて利用してくれて構わねェお前が望むように抱いてやれるし、声だってださないようにしようか」
 彼の口から転がり出てくる言葉全てが彼女にとって都合のよい夢のように思えた。
「そんなの嫌」
「ッそうか。悪い聞かなかったことに」
「それも嫌、聞かなかったことになんて絶対にしない」
 絶対にこのチャンスを逃してなるものかと彼女は深呼吸をする。
「……どういうことだ?」
「好き。好きだから。ベックマンがいいの。ベックマンじゃなきゃ嫌」
 懸命に言葉にした。言葉が音に変わると同時にベックマンは椅子から立ち上がった。
「本当か」
「嘘だったらどうするの」
 思わず試すようなことを言ってしまう。
「本当になるまで口説くだけさ」
「……なら嘘って言っちゃおうかな」
 それくらい彼女にとっては魅力的な言葉だった。
「馬鹿言うな。おまえが言うならいつでもいくらでも口説いてやるさ」
「そうなの? じゃあ、本当よ。嘘なんかじゃない」
 ようやく素直になれた。立ちつくしていたベックマンは近づいてくると覆いかぶさるようにして彼女を抱きしめた。
 
 数か月にわたったこの島を拠点としての航海も終わりの時がくる。荷積みも終わる頃には島の人々が見送りに集まってきていた。
「おーいナマエさーん!」
 彼女の名を呼んで手を振る男女の姿もそこにあった。
「二人とも来てくれたの! ありがとう」
「もちろんですよ!」
 微笑む二人は数か月先に結婚式を控えていた。
「式見たかったなァ。写真撮ったら送ってよ?」
「わかりました。それじゃあナマエさんも彼氏さんと式を挙げる時がきたら写真送ってくださいね」
「えーとそれは」
 恥ずかしさに頬を染め言い淀むナマエの代わりに後ろから現れた人物が言葉を継いだ。
「勿論忘れずに送らせてもらうさ。だろう?」
「あ、じゃあ。ハイ」
「おい副船長! ナマエ! そろそろ乗れ」
 仲間に呼ばれた二人は彼らと別れてタラップを昇っていく。
「結婚式……わたしたち挙げるの?」
 聞かずにはいられずナマエはベックマンを見上げて尋ねる。
「おまえが嫌ならやめとくか」
「そんなことない! いいじゃんやろうよ」
 タラップを昇りきると上機嫌な二人を仲間たちが迎える。
「まさか遊び人二人がくっついちまうとはなァ」
「いーやおれはこうなると思ってたぜ?」
「嘘つけ!」
 今日も騒がしく船は海原を進む。副船長の傍らには楽し気に笑う彼女の姿があるのだった。

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