「ナマエ、話がある」
丁度食後の珈琲を頼もうとしたところにベックマンが二つのマグカップを手に現れた。朝食を終えるのを待ち構えていたらしい。
「なに? 持ち場の割り振り変更でも?」
珈琲の香りと彼の纏う紫煙の香りが混ざり合う。付き合っていた頃の朝と同じ香りだと感じてしまった。未練がましい自分に嫌気がさしてナマエは溜息をつく。
「そう邪険にしてくれるな」
「あァいまのはそうじゃなくて」
ベックマンの乾いた笑いに思わず否定の言葉が口をつく。しかし、ベックマンは彼女の声を意に介さず言葉を続けた。
「構わねぇさ。傷ついた、なんて女々しいことを言うつもりはねェよ。そんな下らねェことよりもおまえさんと話したいことが山ほどある」
「なんのこと? 話が見えないんだけど」
カップをテーブルに置いたベックマンは彼女を見つめてから一拍置いて深々とその頭を下げた。
「悪かった」
「え。なに、ちょっと」
「おれが悪かった。すまない」
「まってやめてこんなとこで頭下げるとか、っちょっとこっちに来て」
ベックマンの謝罪の意味を理解するよりもさきに彼女の身体は動いていた。たとえ自由な海賊稼業といえど船上において守るべき規律はある。そしてそれは見せしめという形で周囲に示されるものだ。つまり副船長ともあろうものが軽々しく、そのうえ皆の集う食堂で、一船員に頭を下げるなんてあってはならない。示しがつかない。即座にそう判断した彼女はベックマンの腕を引いて立ち上がらせるとそのまま彼を連れて食堂を後にする。彼女は自室の前まできたところでようやくベックマンから手を離した。
「話があるなら中できくから。もし変なことしたら、許さない」
短くそう告げると戸を開けて彼女は自ら彼を部屋へ招き入れた。
〇
「それで、なんのつもり?」
彼女は一縷の隙も無い重々しい口調で尋ねた。
「言葉通りの意味さ。それ以上でも以下でもねェ。ただおまえさんに謝りたかった」
「だから、その意味が分からないって言ってるの。どうしてベックがわたしに謝る必要があるの」
彼女はベックマンの真意を図りかねると言った様子でなおも尋ねる。
「付き合っている間、おれは何度もおまえに我慢をさせていたと今更になって気づいた。女連中を相手にするおれの態度は恋人がいる人間のそれとしちゃあ褒められたもんじゃなかったってな」
「だから今更謝りたいって? 別に、もう、どうでもいいよそんなの。終わったことでしょ。それともなに? 船の上で欲の発散に使える便利な相手がいなくなって困ってるの」
吐き捨てるような彼女の台詞にベックマンは少しだけ眉をしかめる。
「……おまえにとっておれはもう過去の男か」
絞り出すような一言だった。
「そうよ」
彼女は溜息をつくように返事をした。
「なら、今度はおまえの元恋人じゃなく新しい恋人候補として話をさせてもらおうか」
「へ?」
「元恋人としておまえさんに謝罪を繰り返すばっかりじゃなにも伝えられそうにないからなァ」
「伝えるってなに……」
打って変わったベックマンの様子に目を白黒させる。そんな彼女の前にベックマンは跪いた。
「くそったれで格好つけな元カレがおまえに伝えられていなかったこと全部」
「なに、言ってるの」
「好きだ、ナマエ」
「っベック頭でも打ったんじゃない。おかしいよさっきからずっと」
「ナマエを失うくらいならちゃちなプライドも遠回しなセリフも何もかも海に捨ててやるさ」
彼女が動揺と混乱で何も言えなくなってしまったのをいいことにベックマンはただひたすらに気持ちを伝える。
「おまえの傍を独占したい。宴のときもそれ以外の時もいつだって、おまえの傍にはおれをいさせてほしい。泣こうが喚こうがそれがおまえさんから与えられるものなら全て、なんだっておれにとっちゃ嬉しいことに違いないんだ」
「おまえさんはまだ何も言わなくていい。ただおれの気持ちを知ってさえくれれば今はそれでいいとするさ。いつか“その時”が来たら応えてくれると都合よく信じておくから」
そうして最後に「愛してる」と言うとベックマンは立ち上がり彼女に背をむけた。
ベックマンからの熱烈な告白から数日が経とうとしていた。あれからベックマンからのアプローチは留まることをしらず今日まで続いていた。はじめこそ彼を避けようとしたもののそこは彼の能力のなせる業、見聞色とその頭脳をもってして彼女の居場所はすぐに悟られてしまうのだった。朝に夕にと熱心に口説かれ続きの日々。そんななか数日ぶりにはじまった宴で彼女の心は大きく揺らめくことになる。
「呑んでっかァナマエ! ほらもっとぐいっといけよォ!」
早々に酔っぱらったらしい同期からの絡み酒。どうやりすごそうか、面倒なら実力行使で昏倒させてやろうか。彼女がそんなことを考えてちびちびと杯を口に運んでいると、ふいに聞きなれたブーツの重い音が近づいてきた。
「その酒はおれがもらおう。あんまりこいつ絡まれちゃ困るからな」
クルーからひょいと酒を取り上げたのはベックマンだった。
「ここにいてもいいか」
ベックマンは彼女に伺いを立てる。そんな聞き方をされては嫌だとも言いづらく仕方なしに彼女は首肯した。彼からのアプローチは熱烈ではあったが今のように一応はこちらに配慮をするかのようなものが多く決して強引なものではなかった。だからついいつも彼からのアプローチを甘んじて受けるほかないような気がしてしまうのだった。
「グラスが空いたか。それなら向こうからひとつ酒をかっぱらってきたこれ、呑んでみないか」
瓶を開栓してベックマンは彼女に酒の香りを確認させた。
「……いい香り。柑橘系?」
「あァ。好きだろう?」
彼の言葉には返事せずグラスを向ける。ベックマンも何も言わず表情だけを和らげると彼女のグラスを液体で満たした。
「おーい副船長はァ?」
「ベックーおまえもこっちきて見てみろよ!」
この日、叫ぶお頭たちの声をすっかり無視してベックマンは彼女の隣でグラスを傾け続けていた。
さて、正直なところ彼女の心はすでに傾きかけていた。だが簡単に折れることはできない。船の上ではこうして熱烈な視線を傍で向けてくれていても陸で同じことができるとは到底思えなかったからだ。だからはやく次の島についてしまえばいいのにと彼女は溜息をついた。そうなれば自然と彼はまた他の女のもとへと離れていくに決まっている。だというのに船はこんな時に限って一向に有人島に着かなかった。数か月の間上陸できた島は無人島続き。ベックマンからのアプローチはその間も止むことは無かった。朝食を食べ終えれば当たり前のように彼が食後の珈琲をいれて話をしにくるようになっていたし、昼の鍛錬終わりには知らせてもいないのにいつの間にか終わると彼がそこにいた。タオルを渡しがてら的確なアドバイスもくれた。夜が来て宴が始まれば彼はナマエの傍を決して離れなかった。そして始終彼と目が合う。そんな生活に彼女はとうとう音を上げた。
ある夜のことだった。副船長室の戸を控えめに叩く音があった。
「ベック話があるんだけど」
「おまえからのお誘いとは嬉しいね。さァ入ってくれ。良い酒があるが呑むか」
「いい遠慮しとく。それに、もうわたしに構わないでって言いに来ただけだから」
ナマエは俯いたままそう答えた。
「そうかい。だけどなァおれがはいそうですかって諦めるとでも思ってんのか」
「それは……」
「知っているだろう? おれはしつこい男なんだ。特に好いた女のこととあっちゃあ尚更な」
「っもうやめて。これ以上このままじゃ」
このままじゃ忘れられない、自分がそう言いかけたことに気づいてナマエは口をつぐんだ。
「このままじゃ、なんだ?」
口を閉ざしたナマエにベックマンは囁く。
「もうおれを諦めるのを諦めちまえばいいんじゃねェのか」
その言葉にナマエは息をのむ。
「諦めたりなんてしなくていいんだナマエ。おまえさんに別れ話をさせちまったような甲斐性なしが今更何をと思うだろうがな。もう二度とナマエに諦めさせたりはしない。誓ったっていい」
「なにに、誓うの」
「おれたちの海賊旗にでも誓うとするさ」
「っ馬鹿じゃないの。もういい」
彼がこの海賊団にどれほど心をさいているか。それを知る人間にとって海賊旗に誓うと言った彼の言葉がどれほどの決意を意味するか。分からないほど彼女は馬鹿ではなかった。本当に彼とやり直してもいいのではと思う反面もう終わったことでしょうと囁きが聞こえる。そうしてまた彼女の心は大波を立てて荒れるのだった。
それからしばらくしたある日の午後。クルーたちは次の目的地が有人島だと知らされた。
聞くなりナマエは安堵の息を吐いた。ようやくベックマンのアプローチから解放される。その事実に寂しさを感じる心を誤魔化すように上陸までナマエは仕事と鍛錬に打ち込んで過ごした。
だというのに、この状況は一体どういうことなのだろう。
まず上陸早々だれが見繕ってきたのか早速見つけた酒場にクルー一同が集まった。そこまではいつも通り。ナマエも酒が呑めるとあって喜び勇んで酒場ヘ向かった。しかしてそこで彼女が目にした光景はいつもと同じようでいつもと違った。ベックマンの両隣に女たちがいない。それ自体はまあ今までにも何度かあった。だから一番の違和感は彼女が店に入るなり彼が目を細めたかと思いきやおもむろに腰をあげて近寄ってきたことにある。
「な、なに?」
戸口からすぐの場所にいた彼女を迎えにきた彼がそっと彼女の背に手を回す。
「えっほんとうになに」
エスコートされるがまま彼女が空いていたカウンター席に尻を収めると当然のごとく彼も隣に腰かける。一瞬の出来事に呆けていると注文は? とカウンター越しに店主が声をかけてきた。注文した酒が提供されるまでの間、隣の男はずっと黙りこくったままだった。
「えっと、とりあえず乾杯……?」
テーブルに届いた杯をそれぞれ手にすれば自然とぶつけあう。木と木のぶつかる鈍い音が落ちた。強引に席に連れてきた割にベックマンはむっつりと黙ったまま酒をのみはじめた。彼女の頭の中は疑問でいっぱいだった。けれど、これが彼のアプローチの延長だということはわかる。だからあえて何も聞かないことにした。彼の目論見通りになんて進んでやるものか。黙って呑んでいればどうせ飽きて商売女のところへでもいってしまうだろうと彼女は自分に言い聞かせる。ほんの少しだけ高鳴っていた胸が落ち着きを取り戻すと喉が渇いていることに気づく。思い切りひと口、ふた口と流し込んだ酒はこの世のオアシスそのものとさえ思えた。
しかし彼女が酒気を含んだ呼吸をひとつついたのを合図に彼が口を開いた。
「言っておくが、」
突然降ってきたベックマンの声に思わず肩が跳ねる。
「おれは、どこにもいかねェからな」
揶揄いのにじむ声だった。まるで彼女の考えなどお見通しとばかりの台詞。
「女の人のとこ行きたいんじゃないの」
生憎と可愛い返事なんてしてやれなかった。
「女ならいま隣に一等イイ女がいるんで他はいらねェなァ」
「もうそういうのいらないってば」
そんなことを言っていればタイミングよく彼の隣にやってくる影があった。
「副船長さんですよね? お隣失礼します」
「あんたは……」
ベックマンが驚きの声をあげる。その隙にナマエは彼の隣からするりと抜け出しお馴染みの面子の席を探す。
「まさかこんなところで美人に会うことになるとはなァ」
背後でそんなベックマンの声が聞こえてきた。ほらやっぱり。ほんの少しでも期待した自分がまた馬鹿をみるだけだった。そんな彼女に声をかけてきたのはやはりというかいつもどおりというべきか、同期の青年だった。
「よっ! 呑んでっかァー」
今日は随分はやくからここに来ていたらしい。すっかり酔った様子の彼に苦笑いがこぼれる。
「おれの酒がのめねェのかよう」
彼は酔うと典型的な絡み酒になるタイプで、ぐいぐい進めてくるものだからついつい付き合って呑んでいると大変な目に合う。とはいえ実際は酔っぱらった青年クルーと彼女はどちらも絡み酒をするので酒の席では同期としてより絡み酒コンビと呼ばれることもしばしば、つまり二人そろって迷惑なのだが酒飲みなどみな似たり寄ったり。仕方ねェなと笑い話になるのがオチである。
「はいはい呑むから」
そうして樽ジョッキ一杯分をのみ終えるかどうかというところだった。
「隣いいか」
丸テーブルに四つ席、全てが埋まっているから無理だと言いかける。しかし割って入ってきた男は隣のテーブルから空き椅子を引いてきて彼女の隣に陣取った
「おっふくせんちょう! のんでますかァー!」
「おまえ酔うとそれしか言えねェのか……」
若干の哀れみを含んだ声でいうものだからおかしくって昔ならみんなと一緒になって笑っていただろう。けれど彼女だけはベックマンの再登場に胸が苦しくておかしくなりそうだと内心嘆いた。さっきの女はどうしたとか、あの女のところにいればよかったのにとか。あの女を褒めそやしたその舌の根の乾かぬ内にやってくるなんて、とか。けれど彼女の口からでたのは酷く情けない台詞だった。
「……もう解放してよベック」
酒が回っているせいか感情の制御がきかなかった。目に薄く膜が張るのがわかる。どうにか零れ落ちない様にしたいけれどもう止められない。
「あァ?」
「いい加減にして。もうやめてって言っているのに。なんで……!」
「好きだからだ」
「女の人のことが、でしょ。わたしじゃなくたっていい」
「いやだ。ナマエがいい」
「今更ご機嫌取りのつもり? いいんだよ? っさっきの人のとこにでも戻ったら」
「おまえさんのためじゃねェよ、おれがここにいるのはおれが好きでナマエの傍にたいから以外に理由はねェ」
矢継ぎ早に行われる言葉の応酬。ストップをかけたのは同期だった。
「よーうやく喧嘩する気になったのかよアンタらはよぉ。せめて船でやんなァじゃなきゃここでおれらと仲良くつぶれるまでのみあかしだァ! なァ! おれの酒のめるよなァ!」
はたしてこれをストップと呼んでいいのか。しかし実際のところ彼女たちは非常に複雑な表情で喧嘩と絡み酒を天秤にかけた結果、船に帰って喧嘩することを選ぶのだった。
諦念(中編その2)
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