おかえり#1
おかえりと彼に伝えるのはずっとわたしの特権だった。同じ船で生活を共にするわたしたちは何があっても必ずここへと帰る。どんなに陸で放埒に過ごそうとも。彼にお帰りと言える女はわたしだけの特権、そのはずだった。
けれど、そんなものは特権でもなんでもなかったのだと知ることになる。それは一ヶ月の島暮らしを満喫しきってさていよいよ出航するときだった。お頭が島の女を連れてきたのだ。すわお頭の女かと色めき立ったがお頭いわくただの客人だという。少し離れた海域の島に急ぎの用があるとかで臆することなくこの海賊船への乗船を頼み込んできたらしい。
客人を乗せた船は快速で海原を進んだ。そしてとうとう彼女を乗せてから最初に上陸した島でことは起こる。
「あら副船長さん、おかえりなさい」
柔らかく微笑んで彼を迎える女の姿がそこにあった。
「副船長さんならどうせ朝帰りだってみなさん言ってましたけど今夜はもう戻ってきてしまってよかったんですか?」
夕方から始まった宴もみな三々五々になりはじめた頃合い。いつものベックマンなら良い女と宿に向かっていただろう。しかしこの日ベックマンはまっすぐに船へと帰ってきていた。
「アンタがいるだろう」
船にはくじに負けて見張り番に当たっている若手クルー。そして他の船員に先んじて船に戻ってきていた客人といつもどおり宴の途中で抜けてきた女クルーとがいた。
「もしかして、わたし口説かれてます?」
「そのつもりだ、といえば大人しく口説かれてくれるか?」
「まぁ! ベックさんがプレイボーイだっていう皆さんのお話は間違っていなかったんですね」
ふふ、と上品に笑って彼に視線をやる女の姿はさながら夜の蝶を思わせる艶やかさが見え隠れする。
「なァにお客人をほったらかしにしておくわけにもいかねェだろう? それがあんたみたいな美人とあっちゃ尚更だ」
「美人だなんて御冗談を」
からころと笑う女の声としっとりと夜になじむ低音がテンポよくかわされていく。
「なにさ……鼻の下伸ばしちゃって……」
ぽつりと零したのはそれまでの二人のやりとりを物陰で聞いていた女クルーだった。
決してベックマンと恋仲にあるわけではない。けれど、いままで一度だって船の上で女を口説くような真似はしない人だった。どれだけ陸の女たちにせがまれても船の上には乗せなかった。だからこそ彼女は長いこと片思いをつづけていられた。
陸のベックマンを視界から外しさえすれば彼の移り気な女遊びみ身を焦がすこともなく、心穏やかにいられる。むしろ、かえってくる彼におかえりと言えるだけで優越感を感じてさえいられた。不毛な片思いを長続きさせる秘訣はそこにあった。
けれど、「おかえり」はあっけなくほかの女の声で発された。それに対してベックマンは今まで彼女が受けたこともない声色と言葉で対応する。
「やっぱりああいう女が好きなのかァ」
自身を子供っぽいとは思わない。しかし大人の魅力があるとも思えない。良くも悪くも彼女は海賊の女だった。
客人は美人で気立てもよく働き者だった。いくらか学があるのか要領もよく任される雑務を軽やかにこなしていくその姿さえも絵になるようだった。そして若手クルーたちがそれに見惚れては頭に拳骨を落とされる日々がまた続いた。あの夜以来ベックマンと女の距離は以前にもまして近くなっていて、それは傍目にもわかる。ベックマンの口はあの女相手だとよく回るらしい。そう気づいてしまうと女として意識されていないどころか自分は眼中になかったのではないかとさえ思えて彼女の口からは知らず乾いた笑いがこぼれるのだった。
船上で客人に「お嬢さん」と呼びかける姿が日常になり始めたころ、レッドフォース号は彼女を乗せてから二度目の上陸を迎えようとしていた。
「お嬢さん少しいいか」
クルーたちが上陸準備に忙しく駆け回っているのを後目に客人だけが副船長に呼ばれるまま船内に消えていく。声を聞いた誰もがいつものように雑用を頼むのだろうと思った。けれどおそらく今回の内容はそれではない。そう直感したのは女のカンなどではなく、ただ毎日彼と彼女の会話に耳をそばだてていたせいだった。
「次の島はシーグラスが有名な島だそうですよ」
「あァ」
「やっぱりベックさんはご興味あまりないんですね」
「そういうお嬢さんは随分と張り切って見えるな」
「ばれていましたか」
「いい機会だ。エスコートを申し出ても?」
「……いいんですか?」
「お嬢さんさえ良ければな」
「ありがとうございます。それじゃあ詳しいお話はまた上陸前に」
昨日の食堂で交わされていたそんな会話。盗み聞きなんて悪趣味だとわかっていてもあの場を立ち去れなかった。憧れの人がぽっと出の女に掻っ攫われていくのをただ聞いていることしかできなかった情けない女。
おかえりと言える特権どころか、船上であの人の隣に立つという長年の憧れさえ軽々と飛びこえていくあの女に愕然とした。副船長とただの一船員でしかないことを今更突きつけられたような気がして胸がぐちゃぐちゃにされていく。そもそも彼女に敵視されたわけでもなければ彼に特別視されたこともない、ただのクルー。それが自分だった。勝負の土俵に上がってすらいない。その事実が心臓に刃を立てる。
上陸したその日、当然のように彼とあの女は連れ立ってタラップを歩いて行った。その後ろ姿をお似合いだともてはやすクルーたちの声を聞きながら一人ありったけの酒を呑みに出かけることにした。
嫌なことなんて酒を呑めば全部忘れてしまうようにできているのが海賊のいいところだと思う。景気よく吞んでいれば勝手に上機嫌になれてしまう。便利な性質だ。周りを気にもせずただひたすら酒を煽っているといつの間にか店の戸口が騒がしくなっていた。何事かと目を向けた先から大きな声がした。
「おーいナマエ! おまえも来てたのか」
「お頭!」
寄る人波をかき分けて隣に座ったお頭は慣れた様子で酒を頼む。
「ナマエが昼間っから呑んでるなんて珍しいなァ」
カウンターに置かれた酒を早速ひと口煽ってからシャンクスがニヤリと笑いかけた。
「たまたまですよ」
「ふーん」
シャンクスの口角はなおも上がったままで妙に上機嫌にもみえる。
「おまえのことだどうせベックのことだろう?」
「な、なにを」
「図星か!」
けたけたと笑うお頭のせいで消えかけていた副船長へのモヤモヤがまた甦ってくる。それをかき消すように残りの酒をぐいと一息に飲み干した。
「おいおいやめておけ。ヤケ酒なんて」
「別にヤケ酒なんかじゃないです! たまたま呑みたい気分なだけで」
必死に言い募る様子をどう受け取ったのかは分からないがお頭は眉尻を下げて
「まあそうだな! なら呑むか!」
と声を弾ませて新しい酒を注文してくれた。
お頭と二人で呑んでいるうちにどこから聞きつけたのか続々とクルーたちが集まってきた。夕方になるとすっかり店は赤髪海賊団御一行様で満席になりいつものように宴だ! と雄たけびが上がる。その中にはいつの間にか副船長とあの女の姿もあった。
二人の様子から察するに丸一日二人きりで過ごしたのだろう。並びあってグラスを傾けて、時折互いの耳に唇を寄せる。内緒話をするようにお喋りをしては二人だけでくすくすと笑い合っていた。
私はといえば負け犬よろしく彼らの座るカウンターから背を向け、嫌な感情を誤魔化すようにクルーたちとともにくだらない話をして大声で笑い、酒を煽り続けていた。
さて、時計の針は零時を過ぎようとしている。いつもならほどほどで宴を抜けてほろ酔い気分でベッドに寝転がっている頃合い。けれど、今日に限っては船に戻る気になれなかった。それは副船長とあの女が連れ立って先に船へ戻ると店を出たせいだった。今夜こそ副船長は彼女を自室に招くのかもしれない。そんなくだらない妄想ばかりが広がっていく。
昼から呑みっぱなしだったせいで珍しくべろべろに酔っぱらったせいか緩くなった涙腺から涙が零れ落ちそうだった。
このまま船には戻りたくなかったけれど、船を降りてからずっとこの店にいて宿のひとつもとっていない。一晩くらいそこらで野宿していても死にはしないだろうなんて考えながら、誰のものとも分からない呑みさしのジョッキを煽る。
「帰りたくないなァ」
つい零してしまった独り言。
「なんだァ? 本当に今日は珍しいな。まだおまえが呑んでいるなんて」
私の隣にどかりと座り込んだのはお頭だった。
「たまたまれすよ」
昼にも同じようなやりとりをした気がする。デジャヴだ。
「ほーん」
お頭は昼と同じく妙に上機嫌に見えた。まァ酒を呑んでいるときのこの人はたいていご機嫌なのだけれど。
「おまえはあれだな。今夜は船に戻るな」
「そりゃもどりたくないれすけどぉ」
「だろ?」
「でも宿とってないです!」
「元気に言うなよ仕方ねェなァ。じゃあ宿、一緒にとまってくか?」
お頭は悪戯っぽい表情を浮かべてそんな提案をしてきた。
「いいんですか?」
「べつにいいんじゃねェか?」
二ッと笑いかけてくるその顔には悪意も害意もなく、私はすっかり安心しきってお頭のとまる部屋に一緒にお世話になることにした。
店を出て宿までの道すがらお頭は妙に静かだった。あんまり静かなものだから、つい、ひとりごとを言うような調子で口を開いてしまった。
「副船長ってああいう女の人がタイプなんですかね」
「あァ? あーあのお嬢ちゃんのことか」
「だっていつも朝帰りなのにあの人が乗ってからはみんなよりもはやくあの人と一緒に船に帰っちゃうし、船の上でも副船長から声かけてるところよく見かけるし……」
「流石によく見てんなァ」
「今日なんてみんなからもお似合いだって言われてたし」
「もうその辺にしとけ。ほら着いたぞ」
わたしが管を巻いて喋り続けているうちにもう宿についていたらしい。お頭のあとにつづいて戸をくぐった。
「明かり消しますよ。それじゃあ、おやすみなさい」
ベッドサイドの明かりを消すと部屋は真っ暗になった。
「おう、おやすみー」
背中越しに聞こえてきたのはお頭の声だ。普段からだいぶ気安いとはいえお頭のベッドを奪うのは忍びないと申し出るとあっさり「なら一緒に寝るか。ギリスペースあんだろ」と言われ、お頭とベッドを共にすることになった。
朝、目が覚めると早速吐き気に襲われ苦しみながらどうにか身体を起こす。トイレに向かうと同じく二日酔いに苦しむ船長の姿。
ようやく二日酔いが落ち着いてきて二人がそろって宿を出ると既に太陽が天高く輝いていた。陽の光にさえ吐き気を催しそうだったがどうにか船まで着替えに戻らなければならない。太陽への恨み言をぶつくさと垂れる女とその女の肩を抱くようにもたれかかって同調する赤髪の男。
そして、この一組の男女が宿からともに出てくる場面を少し離れた露店の入り口から密かに見つめる影が一つ。
