諦念(中)

この記事は約5分で読めます。

 それから数日間、ベックマンは悩んでいた。彼女の言動の意味を理解しようと何度も頭の中で反芻した。あの日の朝、愛していると笑っていた彼女と忘れてよと言い放った彼女。どちらも彼女の本心であるように思えた。だからこそ、その相反する彼女の言動にベックマンは迷っていた。彼女の心を取り戻そうとあがいていいのか。それがかえって彼女を傷つけることになりはしないか。けれどこのまま素直に引き下がってやれるほどお優しくもない。どうすればいいのか、ベックマンは大いに悩んでいた。
 そして彼と彼女の間に亀裂が生じたまま、船は出航の時を迎えた。夜が来る前から出航の景気づけにと甲板には酒と料理が広げられ宴の様相を呈していた。陸での宴と違い商売女たちこそいないものの呑めや歌えや、誰もがその場を楽しんでいた。そんな宴席の一端で男の呆れ声があがる。
「おい誰だナマエにこの酒呑ませたやつ……」
 ナマエと一緒に呑んでいた同期が顔をげんなりさせて周囲に問いかける。
「すんませんおれです! なんでもいいから酒くれって言われたんで適当に注いだんすけど」
「おまえ新入りか。なら覚えといてくれ、こいつその酒呑むと悪酔いするっつうか」
「なに怒ってんのよーあたしがキスでもしたげようかァ?」
 酔っ払いもといナマエはその唇を同期の頬に寄せる。
「やーめーろ」
 絡み酒のキス魔になるんだと新入りに説明しているとどこから集まってきたのか野次が飛び始める。
「見せつけてくれんじゃねェのおふたりさん! おーいナマエ、旦那の前でいいのかよ!」
 やいのやいのと野次が飛ぶのをものともせずナマエは同期との距離をさらに詰めて叫ぶ。
「これからわたしは独り身をおーかするの! だからキスもオッケーってわけ!」
「独り身を謳歌するのはいいがおれを巻き込んでくれるなよ……とりあえずコイツ相当酔ってるみたいだし部屋置いてくるわ」
 同期が仕方なしに彼女の身体に手をかけたそのときだった。
「いやいい、おれが連れて行こう」
 横から掻っ攫うように彼女を抱き上げるとベックマンがそう言った。
「……へーいじゃあおれはそいつの部屋に水持っていっときますわ」
 いつもそうしていたように、腕の中の彼女に振動が伝わらないようにベックマンはそっと歩く。彼女にあてがわれた船室のドアをくぐると静かにベッドへ横たえた。そのまま立ちつくしていると水差しをもった男が部屋に入ってくる。
「失礼しますよっと……あァ寝ちまったんですね」
「こいつと同期だったか? 悪いが、おれのだ。諦めろ」
 ベックマンは釘をさすつもりでそう言った。けれど、男はベックマンの言葉を聞いて乾いた笑いを漏らした。
「はは、よくそんなこと言えましたね。こいつは、諦めたって言ってましたよ。あんたのこと、もういいかって。自分のことであんたを煩わせたくないとかどうとか、もう考えてほしくないって。そう言ってたんですよ。こいつをあんなになるまで放っておいたのは副船長、あんただろ。こいつの愛情に胡坐かいてたあんたが言っていい台詞なんですかね……なんて! じゃおれは先に戻りますんで」
 最後にニカリと笑うと男は風のように部屋を出て行った。彼女を見下ろすベックマンの脳内には彼女との日々がいくつも駆け巡る。おれに愛ある眼差しを向ける一方でもうおれからの愛を望んでいない。諦めているとはきっとそういうことなのだろう。
「なるほど。忘れていいなんて言ったのはそのせいか」
 ベックマンは眠る彼女の頬に手を添えた。
「もう一度おれを望んでくれ。おまえを愛していたいんだ」
 いまだ眠る彼女にベックマンは懇願した。
 
 〇
 
 穏やかな寝息だけが響く暗い部屋を後にして、ベックマンは懐に煙草を探る。
 ほの明るく灯したマッチの火に口寄せた。ふうと紫煙を吐き出すベックマンの口元は意外にも笑みに歪んだ。彼女の言動の理由を知ったいまベックマンにはなすベきことが明確にみえていたからだ。
 明日からいったいどうやって彼女に愛を伝えようか。どうやって彼女を振り向かせようか。年甲斐もなくあけすけな本気の愛を彼女がどう受け取ってくれるか。彼女を愛せる喜びにベックマンは笑みを深めていた。
 
  〇
 
 夢の中、穏やかに微笑む彼を見たようなそんな気がした。
 朝目が昇りきった頃、頭痛を覚えナマエは起床した。久しぶりに飲みすぎたと遅すぎる後悔が鏡に映る。昨晩の醜態は途切れ途切れにしか思い出せない。この部屋まで一人で戻ってきたのだろうか。だが、枕元には覚えのない水差しがあった。誰か部屋に連れてきてくれたのかもしれない。そう思ってみると誰かの腕に揺られていた感覚があるような。そしてその感覚にはどこか落ち着くものがあってもしかしたら……
「ベック……なわけないよね」
 ベックマンのことはここ最近ずっと頭の隅に追いやっていたのだが今朝みた夢のせいでつい彼のことが頭をちらついてしまう。しかし途切れ途切れの記憶をたどった最後に思い出せるのはわたしからのキスを嫌がる同期の顔だった。つまり部屋に送り届けてくれたのもきっと彼だろう。持つべきものは優しい仲間だと再認識して彼女は食堂へと足を向けた。「おはよう。昨日はよく眠れたか」
「……おはよう」
 食堂に入るなり声をかけてきた相手は避けていたはずのベックマンだった。別れた日以来、彼から業務外で声をかけられるのはこれが初めてだ。
「まあそれなりによく眠れたと思うけど」
 彼の問いかけに思わず夢の中でみた微笑みかけてくるベックマンを思い出して何とも言えない気分に顔をしかめそうになる。
「そいつはよかった。昨日の記憶は?」
「いつもの面子で呑んでたとこまではしっかり覚えてるけどあとはあんまり……なんでそんなこと聞くの? 昨日のわたし何かやらかしてました?」
「……いや、それならいい」
「じゃあ朝飯もらいにいくところなので」
 妙な様子のベックマンに首をかしげたままナマエはカウンターに向かう。朝の夢といいこちらを気に掛けるような彼の様子といい、どうにも胸が音を立てるのを抑えられない。彼のことは諦めきったはずだというのにいまだに彼の一挙手一投足にナマエの心は揺さぶられてしまうのだった。

WEB拍手

    拍手ありがとうございます!とても嬉しいです!
    心ばかりのお礼ですがお納めください。

    拍手お礼ss/ベックマン夢

    選択式感想
    ※ボタンを押して選んだら最後に[送信]を押してください

    お名前
    メッセージ

    benn・beckmanOP夢
    テキストのコピーはできません。