月下美人
「また明日会おう」
そのとき彼女はその言葉を信じいていいのか迷った。
夕暮れ迫る街を眼下に酒場でもないただの道端で言われた台詞だった。
――――――――――
その日、わたしはこの人と初めて出会ったばかりだった。街角でゴロツキに絡まれていたわたしを偶然通りかかったこの人が助け出してくれた。まるでベタな恋愛小説みたいな出会いだった。だけどそのヒーローは若くて端正な顔立ちの男なんかじゃなくてまるで正反対の中年で目元に十字傷のある強面の男。それに彼はヒーローどころかこの海を跋扈する大悪党、海賊だった。
その顔には見覚えがあった。どこかで会ったことがあるわけじゃない。新聞や手配書で何度か目にしていたからすぐにピンと来たのだ。彼が海賊の、しかもあの赤髪のところの副船長ベン・ベックマンである、と。
ゴロツキの次がまさか大海賊との出会いになるなんて誰が思うだろう。とにかく相手の気に障らない様に礼を言ったらすぐにこの場から離れようと算段を立てたうえで形式的な礼を口にした。あとはこの場を去るのみ。だが、目の前の大男の傍をすり抜けようと身体を斜めにしたところでなぜか続けて声をかけられてしまった。
「お嬢さん、ちょっといいか」
海賊からの「ちょっといいか」なんて台詞にいいえ駄目ですさようならとスッパリ答えられるような女だったら今頃わたしは海賊になれていたかもしれない。そんなことを考えつつただの平凡な島の庶民に過ぎないわたしは仕方なしに了承の意を示す。
「なにか御用ですか」
尋ねると彼は一瞬言いよどむような様子を見せつつもこう答えた。
「なに難しいことはねェさ。ひとつ街案内を頼まれちゃくれねェかと思ってな」
曰く、彼ら赤髪海賊団は今朝この島に着いたばかりで街を案内してほしいのだとか。本当にそんなことが目的なのだろうか。わたしは真意を図りかねた。
ベン・ベックマン、彼についてはプレイボーイだという噂を聞いた覚えがあったからだ。しかし、こうやって女を引っかけているのだとしたらうまい手だと思わず感心してしまう。結局、大海賊相手に抵抗する度胸もなく、わたしは大人しく街案内を引き受けることになった。
いざ、街案内をするとなるとどこを案内すべきか。大いに頭を悩ませるわたしの横から彼が口を出す。なんと意外にも本屋だとか図書館、美術館や博物館はあるのかと尋ねてきた。そんな場所に興味を示した彼に内心驚いた。もっと酒場とか、金品を扱う店だとかに興味があるものと思っていたからだ。それに恩にかこつけて宿に連れこむような海賊も多い。彼はそれまでわたしが持っていた海賊の印象のうちどれとも合致しない男だった。
これはこちらも偏見を改めた方がいいかもしれない。そう思って彼との出会いから反芻してみると彼が一度も、わたしを呼び止めるときでさえ、わたしの身体に触れていないことに気づいた。意識的にそうしていたのだろうか。だとしたらとても紳士的な人間だ。さっきから交わしている会話もどこかこちらを気遣っている気配を感じる。
少なくとも力であのゴロツキたちをねじ伏せたときのような威圧感はもうどこにもなかった。そうして気づくとわたしは彼との会話を楽しんでいるのだった。
「あの店なんかよさそうだな」
唐突にそういって彼が示した先にはカフェがあった。
「あの店、最近できたばかりで毎日行列の人気店なんですよ」
さすがプレイボーイ、流行にも敏感なのかと思いかけたところで否定の声が上がる。
「いいやそっちじゃない。三軒先の向こうの店が気になるんだがいいか?」
それはわたしが以前から気に入って入り浸っているカフェだった。
「あなたの方こそいいんですか? 流行りの店じゃありませんけど」
「向こうの方が落ち着けそうだと思ってな」
「そういうことなら。あそこはスイーツがどれも絶品なんですよ」
「そいつは楽しみだ」
微笑む彼はやはり、わたしのもっていた海賊のイメージとはまったく合致しない。まるで紳士そのもののような振る舞いだった。
並ぶこともなくスムーズに席に案内されると店員がメニュを持ってくる。わたしはそのメニュを彼に向って差し出した。
「ん? アンタは見なくていいのか?」
不思議そうにこちらに視線を寄越した彼にわたしは答える。
「この店に来るとたいてい同じものを頼んでしまうので」
「いつもの、ってやつか。ちなみにあんたのおすすめを聞いてもいいか」
「それなら味の好みをすこし伺ってもいいですか? 甘いものは苦手? フルーツとか大丈夫ですか?」
「苦手ってこともねェが。集中したいときに時々飴を舐めたりする程度だな。果物もたいてのもんは食える」
「よかったそれならこのアップルパイか、それかこっちのフルーツタルトもおすすめですよ」
「ならそうだなァ……」
そんな他愛ない会話をしてメニュを決めると早速注文をとってもらうことにした。
――――――――――
注文したメニューはすぐに配膳されてきた。
「ありがとう」
そういって受け取る彼の姿に海賊の粗野さは感じられない。不思議な海賊だと思った。
ひと口分フォークで切り分けて口に運んでいくのをつい眺めていると彼の目が見開かれるのが分かった。
「……! うまいな」
それは心からの反応だった。プレイボーイの言いなれた美辞麗句でもなければ紳士然とした態度とも違う。
「でしょう?」
思わずこちらも相手が海賊であることを忘れて、したり顔で笑いかけてしまった。
笑いかけてくる彼女のその表情にベックマンは自身の胸が音をたてたのを自覚した。彼女はゴロツキにちょっかいかけられていたところを助けたついでに、といつもの調子でナンパしただけの女性だった。
女の警戒心を解きほぐす手段なら心得ているつもりだった。実際彼女もこの道中ですでに警戒を解きはじめていたはずだ。ただベックマンはと言えばいつも女たち相手に本音を晒すことなどなかった。それは警戒を怠らないということでもあり、火遊びを楽しむ者なら誰しもそうするのが当然というものでもあった。
だがそれがケーキの予想以上のうまさについ本音がこぼれて、らしくもない反応をしてしまった。なんて馬鹿らしい理由だろうか。
けれど彼女はそんなおれをみて今日一番の笑顔をみせた。
不思議な女だと思った。美辞麗句のどれにもはにかんでいたし、くだらない話をする間にも気を許して笑っていたはずの彼女がみせた最初の本当の笑顔はきっとそれだったとベックマンは思う。
――――――――――
カフェで休憩したあとも街案内は続いた。
「次はどこに行きましょうか。街の中心部はだいたいご案内したつもりなんですけど」
再び頭を悩ませる彼女にベックマンは悪戯っぽく言う。
「そうかおれとしてはもう少しお嬢さんと一緒に過ごしたいんだがなァ」
「そう言われましても……あ、じゃあちょっと街の高台の方へ行ってみませんか? 面白みのあるものじゃないですけど景色が綺麗ってこの島の観光名所なんですよ」
いま思い出したという様子で視線を上の方に向けた彼女が指をさして次の案内先を教えてくれる。
「ほうそいつは食後の運動に丁度よさそうだ」
「なら行きましょう。この先の道を右だったかな」
彼女はすっかり海賊から逃げ出そうとしていた最初のことなど忘れて彼とこの街を歩くのに夢中になっていた。高台ついたころ、街は夕焼けに染まり始めていた。
「この時間にきて正解だったらしいな」
赤く染まる街はたしかに綺麗だった。
「そうですね。わたしも久しぶりにここに来てよかった」
二人の長い影が道端に落ちる。彼らは互いに妙な充実感を感じていた。
そうして二人が街を眺めるあいだに空には藍色が滲み始める。
「じゃあわたしはこれで」
とうとうお別れの時間。切り出したのは彼女の方だった。
「もうそんな時間か。長いこと付き合わせちまったな、ありがとう」
「いえ私も楽しかったので」
彼女は正直な感想を述べた。本当に想定外に楽しく充実した一日になったと笑顔で言う。
「なあ、また明日も会えるか?」
そう申し出たのは彼の方だった。彼からの申し出に彼女は思わずしり込みしてしまう。それは今日一日で彼がどんなにいい男なのか理解できてしまったからだった。
きっと女の人を今まで何度も相手にしてきたんだろう。そう思うと彼女は怖くなった。このままこの人を好きになってしまったらわたしは一体どうなってしまうのか。
「すまん。困らせちまったらしいな。それならこうしよう。もしも、明日あんたがおれに会ってもいいと思ったら、その時はまたここに来てくれ。わかったか?」
すぐに彼女の様子を察したらしいベックマンはそんな約束を提案してきた。
「……わかりました」
「それじゃあ、また明日会おう。待っている」
ベックマンは最後まで彼女に触れることなく去っていった。
「また、あした……」
思わず言葉を反芻する。その言葉を信じいていいのか迷った。自宅に帰りついても答えを出すことはできず、彼の後ろ姿が瞼の裏で何度もリフレインした。
明日わたしはどうすればいいんだろうか。彼女は迷いのままに眠りについていた。
翌朝、寝間着のまま朝食をむだにゆっくりと食べてからのろのろとクローゼットの前に立った。今日彼に会いにいこうかまだ彼女は悩んでいるのだった。しかし、今日の彼女にはすでに予定が入っていた。昨日は気が動転してすっかり忘れてしまっていたのだが元々友人とランチの予定が入っていた。
「いけるとしても昼過ぎになっちゃうな」
そんな時間に行ったところで彼はもういないんじゃないか。そんな考えがよぎる。彼の言葉を本当に信じていいのかもまだ迷っている。それならいっそいかない方がいいんじゃないかと気持ちは傾いていった。
――――――――――
その頃、ベックマンは彼女が会いに来てくれるか確信が持てず珍しくそわそわしているのをシャンクスに見つかっていた。
「おう! 珍しいじゃねェか。おまえがそんなになるなんてよ」
「うるせェ」
「余裕のねェ男は嫌われるんだぜ!」
「頼むから黙っててくれシャンクス」
大きなたんこぶをこさえたシャンクスが退散したのを確認してベックマンは昨日最後に彼女と会ったあの高台へと向かって足を進めた。
――――――――――
「ひさしぶり!」
約束していた時間通りにやってきた友人に手招きする。レストランが混みあう少しまえに来ておいて正解だったようだ。
「最近どう?」
簡単な近況報告にはじまり友人との話はあちこちに内容が飛んでそれは楽しい時間だった。そして話は仕事のことにも及んでいく。友人は酒場で働いていて、なんと赤髪海賊団が昨晩彼女の働く店を訪れたのだと言う。
「海賊っていうからちょっと構えてたんだけど乱闘なんかはなかったしいいみんな酒好きのいいお客さんだったよ。顔に傷のあるひとも多かったけど気風が良い人たちばっかりで接待に呼んだお嬢さん方からも評判よくってね! とくに船長さんと副船長さん! 大人気でさ。一番人気の嬢が熱上げてるの久々に見ちゃったよ」
忍び笑いして語り続ける友人の声が途中から耳をすり抜けていく。
やはり彼には女なんてよりどりみどりだった。わたしみたいなしがない庶民との口約束なんて忘れているかもしれない。そう彼女が思い至るのに時間はさしてかからなかった。
彼のリップサービスに舞い上がっていた自分はさぞ滑稽だろうと思えてならない。ランチを終えると買い物をしてから友人とはわかれた。
次第に陽が落ち夕暮れが迫ってくる。夕焼けにきっと街の高台からの景色が美しく見える頃、彼女は高台を一瞥すると振り切るように家路を急いでいた。
そして彼女がこないままベックマンは夕方を迎えていた。昨日あんなに綺麗に見えた景色が色あせて見える。彼女と会えた時に煙草臭くちゃよくないだろうと丸一日控えていたがとうとうそれを取り出して火をつけた。煙草は火に焼かれじりりと短くなっていく。
この一本を吸い終えたら下へ降りよう。そう考えて火をつけたはずだった。
夜、すっかり日が暮れ夜空には星が輝く。ときおり肌寒い風が吹き抜けていった。ベックマンはただ押し黙ってそこにいた。この一本を吸い終えたら、いやあと一本、もう一本。そうしてベックマンは先延ばしにし続けていた。諦めがつかなかった。今日一日、ずっとここで待ちぼうけで食事をまともにとっていない彼の腹が空腹を訴えてくる。それでも彼は待ち続けることにした。
「ここまで来たらいっそ朝まで待ってみるかァ」
諦めのようにはなった独り言が虚しく夜空に吸い込まれていった。
――――――――――
目覚ましの音に重たい瞼を持ち上げる。結局彼女はあの場所へ行かなかった。
彼はどうしただろうか、と考えかけてやめる。別の女でもひっかけて過ごしたに違いない。彼なら簡単にそれができただろう。あれだけ魅力的な人だったのだから。
朝食を口に詰め込むようにしてとってから身支度を整えると溜息をついて家を出た。今日は仕事だ。シャキッとしなければ。
しかし職場へ向かうまで彼女は何度も彼のことを考えてしまう。そしてそのたびに冷静な自分によって想いはかき消されていくのだった。
昼も過ぎて仕事が落ち着いてきたころ。職場でおつかいを言い渡された。行き先はあの高台の方だった。正直行きたくはなかったが仕事は仕事と割り切って足を運ぶことにした。
だが、そこにはもちろん彼の姿はない。彼との約束は一日前なのだから当たり前だ。けれど心のどこかで残念に思っているのも事実だった。
そして彼女があることに気づいたのは無事相手先に書類を届け終えて職場へ帰ろうとしたときだった。
嗅ぎなれない煙草の香りだった。
けれど彼女はそれを最近どこかで嗅いだ覚えがあった。そして思い当たったのは彼。こちらを気遣ってか目の前で吸うことはなかったものの彼に染み付いた匂いで彼が吸う人なのだとわかっていた。
あの日ずっと隣にあったかすかな香り、それとよく似た香りについ振り返ってその姿を探してしまう。けれどどこにもその姿はなかった。
もしかして昨日彼は本当にここで待っていたのではないか、そんな可能性に行きあたる。けれど匂いなんてただの気のせいだったのだと彼女は思い直した。そう思わないと自分が苦しむだけだと理解していたからだった。
だが意外にも再会のときはすぐに訪れた。彼女の職場にベックマンがやってきたのだ。決して乗り込んできたわけではなく、門に背を預けて彼女が退勤してくるのを彼はそこでじっと待ち構えていた。どこから情報を得たのか、やはり彼も海賊だったのだなァなどと冷静に理解する一方で脳内ではけたたましく警鐘が鳴り響いていた。
開口一番彼はこう言った。
「もう一度チャンスをくれないか?」
その表情はまるで真剣そのものみたいに見えた。
「チャンス?」
「また明日あの場所で待っている」
「そんなこと言われたって」
「信じられない、か?」
言葉をかぶせるようにして彼は尋ねてくる。実際のところどうせ本気にしたって傷つくのはわたしのほうだと彼女にはそう思えて、またしり込みしているのだった。
「それなら、おまえが信じてくれるまで。会いに来てくれるまで。明日も明後日もその次の日もあの場所であんたを待とう」
ベックマンはそう言い切った。そしてまた彼女に少しも触れることなく彼はその場を去った。どこまでも彼は紳士的にそして誠実にこちらに対峙してくる。それが彼女を尚更悩ませているとも知らずに。
しかし後日、街でとある噂が広がり始める。
赤髪海賊団の副船長が毎日あの高台で誰かを待っているらしい、話じゃ朝から晩までほとんどずっとあそこに立っているらしいと。それはもちろん彼女の耳にも届いていた。
そして彼女の休日がまたやってきた。仕事があるからとずっとそれを理由にあの場所へ行くことを彼女は避けてきた。しかしとうとう言い逃れのできない休日がやってきてしまったのだ。
今日も彼はあの場所で待っているんだろうか。彼女はまだ覚悟を決めかねていた。そうしてなんとか他のことをして時間を潰そうと訪れたのは図書館だった。
そこでたまたま目についたのはきらびやかな装丁がなされた花の本。植生だけにとどまらず花言葉やその所以までも詳細に記されている。数ある花々の中でとあるページが彼女の目に留まった。
「ただ一度だけ会いたくて」
それは月下美人という花の花言葉だった。その花は夜になると咲き始め、翌朝にはしぼんでしまう儚い花なのだという。ただ一度だけなら、ついそんな考えがよぎった。
たった一度、今夜だけ、信じてみよう。そして彼女は高台へと向かって走り出した。
暗い夜でも月の光に照らされてきらりと輝いてみえたのは彼の銀灰の髪だった。近づくほどにあの日と同じ煙草が香ってくるのがわかる。あの日と違うのはそれが残り香が否か。直接鼻腔をくすぐる香り。あの日よりもそれを強く彼の存在を不思議と近くに感じる。
「こんばんは」
彼が振り向くのがスローモーションみたいに感じた。彼は記憶の中よりもうんと柔らかい表情で微笑んでいた。
「こんばんはお嬢さん」
「……沢山待たせてしまってごめんなさい」
「いいやちょうどいま来たところさ」
見えすいた嘘。だけど気障っぽいそんな言葉がいまは嬉しかった。
「嘘つき。ずっと待ってくれていたって街のみんなが噂してました。だから知っているんですよ。あなたがずっと待っていてくれたこと」
「そうか、バレちまってたか」
嬉しそうにはにかむ彼は初めて見る表情だった。百戦錬磨の副船長なんじゃなかったの? どうしてそんなかおで笑うの? 頭の中は混乱しはじめる。
「もう少し近くに来てくれないか」
言われたとおりに近寄ると手が届きそうなほど距離が近くなった。けれど、やはり触れようとしてくる気配はない。
「ここであんたを待つ間ずっとどう口説こうか考えていた」
「どんなふうに口説いてくれるんですか」
「そうさなァ」
考えるような素振りをしてから彼は真剣な表情になって口を開いた。
「あんたが好きだ、付き合ってくれ」
意外にもストレートなその言葉に油断していた頬が熱くなっていくのがわかる。
「色々考えちゃいたんだがなァ。次にいつまた会えるとも分からねェ相手にまどろっこしいことしてられねェだろう。あんた相手におれは自惚れてる余裕も暇もないくらい真剣だって言ったら信じてくれるかい。それともこれも嘘だと思うか? なァお嬢さんあんたはどう思った」
「わたしは……」
彼の実直なまでのものいいにわたしはまたもしり込みした。どう答えるのが正しいのだろう。わたし自身はどうこたえたいのだろうか。
「今すぐに決断しろとは言わねェ。期間はひと月だ、おれたちの船がここ出るそのときまで。試しでいい、気まぐれだって構わない。おれと付き合ってくれないか」
彼はまたわたしに猶予を与えるような提案をしてきた。そしてわたしはそれに飛びつくように返事をしていた。
「わかりました……一ヶ月、よろしくお願いします」
「大事にする」
大事にするなんて、まるで結婚目前のカップルみたいなものいいに気恥ずかしさが募る。
「触れても、いいか」
すこし上ずったように聞こえた声に彼が本当に緊張していることが伝わってきた。
「どうぞ」
繋いだ手は大きくて温かかった。
――――――――――
一ヶ月は長いようで短い。あっという間に月日は過ぎていった。
この一ヶ月の間、ベックマンは甲斐甲斐しく毎日朝食を片手に彼女の家を訪れたし、夕方には職場へ迎えに行った。休日ともなれば二人でデートにも出かけた。島の反対にある街まで遠出をしてたこともあったし、いつのもカフェや彼女の家でゆっくりと二人の時間を楽しむこともあった。
あれほど避けていたであろう触れ合いは手を握ったりハグをしてそしてキスをして。順調に二人は愛を育んでいた。けれど身体のつながりだけはなかった。
彼曰く、身体目当てだと思われたくないからだそうだ。似たような理由で彼はいつも朝やってきて夜には船へと帰っていった。泊まっていけばいいのにと思う反面、まだ答えを出さずにいるわたしが言うのは卑怯だろうと彼女は言い出すことができなかった。
正直、キスだけでくたくたになる彼女にはありがたいような、もどかしいような。そんな甘く温かい日々が続いていた。そして彼がようやく彼女に遠慮せず煙草を吸うようになった頃、彼らの船出は目前に迫りつつあった。
「今日は何時にあがれそうなんだ」
「8時には終われると思う」
「そうか、あまり根を詰めるなよ」
そんな他愛のない、普通のカップル同然の会話が毎日のように交わされていく。
「今週は忙しそうだったし休みの日くらい家でゆっくりしたらいい。家事もおれに任せてくれていいから」
彼女はすっかり彼にだめにされそうだと感じていた。月下美人に背を押されてたった一度のつもりで足を向けたあの日から、いつの間にか絆されて毎日逢瀬を重ねている。
そして気づけばこの逢瀬が少しでも長く続けばいいと願うほどに、彼の愛を今さら疑う気持ちはなかった。けれど彼らは海賊。最初に提示された期間はもうすぐそこまで迫っていて、彼がいなくなる日は近づいている。
現実に直面し始めて彼女はまたも悩んでいた。彼はどうするつもりなのだろうかと。彼やその仲間たちはわたしがついていくことを許すだろうか。それとも、こちらの方が可能性が高いが、わたしをここに置いて去っていくのだろうか。
現地妻よろしくここで彼を待つことを想像してみる。彼はどことも知れぬ空の下。もしかするとそこで素敵な女性と出会ってしまうのかもしれない。彼女は考えただけで苦しくてたまらなかった。けれどだから船に乗せてと言えるほどの度胸も図々しさも持ち合わせていなかった。
「なにか考え事か?」
「……なんでもない」
「そうか」
彼女ははじめて誤魔化すために彼にキスをした。ちっとも嬉しくないキス。それでもどうかこの時間が少しでも長く続きますようにと願わずにいられなかった。
そして訪れた最終日。この日彼女は休みをとっていた。理由はもちろん、彼と過ごす最後の日になるかもしれないからだ。
いつものように彼がやってくるの待つ間に珈琲をいれる。コンコン、ノックの音が届いて玄関へと向かった。
「いらっしゃい」
そしてこの日最初のキスを頭に受け取った。彼もいつもと変わらなかった。
「今日は一段と可愛いな」
「あなたにはわたしがどう見えているのか不思議でなりませんね」
「そうか?」
「そうですよ」
顔を見合わせて二人は笑った。
「さあ早く入って。今日は朝食に何を持ってきてくれたんですか」
「焼きたてのバゲットでつくったサンドイッチと市場で見つけたフルーツにヨーグルト。こんなもんでよかったか?」
「いいにおいのもとは焼きたてバゲットですね楽しみ」
ゆったりと朝食をとってから二人は今日の計画を立てる。
「今日はどこかに行くか? それとも家?」
「天気もいいしデートにしましょう」
「それなら支度しないとな。片づけはやっておくからとびきり可愛くなってきてくれ」
「ふふわかりました」
すっかり慣れた様子で二人はキッチンと自室とに分かれていく。
「どうですか」
「あぁかわいいなァ」
「でしょう?」
これもまたすっかりお馴染みになったやりとりに彼女がしたり顔で笑いかけると彼は一瞬だけ真顔になったような気がした。
「なんです?」
「いいやなんでもない。ただ見惚れていただけさ」
それから二人はは揃って家を出た。晴天のデート日和だった。
訪れたのは、あの日と同じ。彼に頼まれて彼女が案内した場所ばかりをみて回った。本屋に図書館に美術館。それらを回る間にすっかり彼もなじみになった店でランチをとった。
足が疲れてきたころにはやっぱりまたあのカフェの近くまで来ていて、あの日と同じメニュを頼んだ。そうして最後には自然と高台に向かって足が動いているのだった。
お互いに何も言わなくてももうわかっていた。そこに着いたらこの一か月間の幸せだったお試し期間は終了。否が応でも答えを出しておわりにしなければならない。
やっぱり現地妻になるしか方法はないんだろうなと寂しく思う一方であれだけ彼を待たせ続けた罰なのかもしれないと心のどこかで彼女はそう思う。今度はわたしが彼を想ってここで待つのもそれほど悪いことじゃないのかもしれないとどうにか自分を納得させようとするうち、自然と彼女の歩みは遅くなっていく。
数歩先を行っていた彼が心配そうに振り返った。
「大丈夫か? 疲れたならおぶるぞ」
「大丈夫あと少しだけだから」
「そうかならせめて手でも繫ごう」
この時ばかりは彼の優しさが、その愛情が、胸を押し潰されたかのように痛いような気がした。
たどり着いたそこには人影はなく二人きりだった。
「この景色も見納めだな」
「そうだよね」
「答えを聞いても……いや、やめにしよう」
ベックマンはは微笑むとそう言った。
「え、なんで」
いまにも泣き出しそうなのを必死にこらえて彼女は声を絞り出す。
「いいか。よく聞いてくれ。明日おれたちはこの島をでる。もしおまえの答えがイエスなら出航する前にもう一度だけ会いに来てくれ。その時は総出で歓迎するよ。だから、そうだな……また明日会おう、待っている」
強面の大男から発されているとは思えないほど温かく穏やかな声。まるで宥めるようにまた明日と言ってわたしの髪をそっと耳にかける。最後にふってきた唇はおでこに軽く触れて去っていった。
――――――――――
いままで、彼の言うまた明日はいつまでも待っているのと同義だった。けれど今度のまた明日は本当に明日一度きりしかやって来ない。
初めて会った日、わたしは彼の言葉を信じていいのか迷った。けれど彼はいつだって裏切るようなことはしなかった。だからわたしはようやく彼を信じることができた。
最後の彼の言葉が脳内をリフレインする。
「いいか。よく聞いてくれ。明日おれたちはこの島をでる。もしおまえの答えがイエスなら出航する前にもう一度だけ会いに来てくれ。その時は総出で歓迎するよ。だから、そうだな……また明日会おう、待ってる」
彼は歓迎すると言ってくれた。わたしがそれを望めば船に乗せてともにいけるのだと彼は言外に教えてくれた。わたしが情けない顔をしていた理由を彼はもしかしたら知っていたのかもしれない。ここで彼を待ち続ける以外の選択肢を彼は示してくれた。
彼がもしそれを望んでいてくれるなら、わたしも望んでもいいだろうか。それならわたしの答えは、もう決まっていた。
――――――――――
目を潤ませて見上げてきた彼女の顔をベックマンは思い出す。
彼女が自分を愛し始めていることはわかっていた。けれど彼女は心が傾いただけでは歩み寄ってこない、欲しがってくれない。最初にした口約束のように。彼女がおれを信じられないと少しでも感じていたならきっと歩み寄ってきてくれないだろう。だからこそ、最後の一歩を彼女に選んで歩み寄ってきてほしかった。最後に見た彼女の表情は迷子のこどものようだった。おいでと手を差し出せば素直に付いてきたかもしれない。けれどそんなものは弱みに付け込んだだけだ。ベックマンはただ彼女に欲してもらいたかった。
選択肢は示した。あとは明日、彼女を待つだけだった。
そして朝が来た。太陽がまぶしくレッドフォース号を照らし気持ちのいい風が吹き抜けていく。出航にはうってつけの天気だ。
船の周りでは物資の積み込みが進められていた。すっかり副船長の顔つきに戻ったベックマンは淡々と作業をこなしていく。彼女がいつ来てもいいようにその気配を探りながら。
だがそうこうするうちに作業も終わりに近づいていく。積み荷はもう全て載せ終えた。あとは陸地にいるクルーたちが全員ここに揃えばそれで船を出すことができてしまう。
ベックマンは彼女が来るであろう方向を見つめてマッチをこすった。
「おまえのご執心の嬢ちゃんはどうだ? 船に乗りそうなのか?」
問いかけてきたのはお頭、シャンクスだった。
「分からねェよ」
「おいおい昨日答え聞いてきたんじゃねェのかよ!」
「聞いてねェ。だから今日あいつがここに来るかどうかは分からねェなァ」
ぷかりと煙を吐き出してベックマンは答える。
「確率は?」
じろりと睨むと溜息をつく。
「好きに賭けてろ」
「あちゃーバレてたか。まいいさ、おれは乗船するに10万ベリー賭けてんだ。おれはおまえもその嬢ちゃんのことも信じてるぜ? ベック」
「そーかい。ありがとよ。あァちなみに当たったら半分寄越せ」
「げ! 話すんじゃなかった……」
肩を落として歩き去るシャンクスを眺めてベックマンは再び溜息をついた。それから一時間もすると遅れていたクルーたちも次第に集まってきた。
「帆を張れ! 錨をあげろー!」
とうとうその時が来ようとしていた。
――――――――――
街をひた走る。この街をこんなに必死になって走ったのは子供の頃以来だろう。運動不足がたたってすぐに息が切れる。
「はっはっはっ」
短く吸って吐いてを繰り返す。港に見える船は帆を張る準備を進めているようだった。間に合うだろうか。あれってきっと帆を張れ―とか錨をあげろーとか出航直前にやる作業だったような気がする。もっともっと急がなければ。それでもスピードは全然上がってくれない。
それどころか急に動きを速めようとした足はもつれて地面が目の前に近づく。彼女は反射的に両手を前に突き出した。
「いった……く、ない」
地面にぶつかる前に身体ごと抱き留められたのだと気づく。そのがっしりとした体躯にも抱きしめる感触にも覚えがあった。
「あなたは」
「まさか自己紹介が必要か? ベン・ベックマン、赤髪海賊団で副船長をやっている。それでたった今からおまえの男、そうだな?」
「あ、そう、そうです……!」
今度こそ思い切り彼に抱き着く。
熱い抱擁を交わす二人をクルーたちが船の上から囃し立てるのが聞こえてきていた。
「歓迎するといったろう?」
「あははそうでしたね。よろしくおねがいします!」
「選んでくれてありがとう。ずっとおまえを待っていた」