たった一つの理由でわたしはベックマンと別れることに決めた。それはとても陳腐で他愛のない理由。付き合う前から薄々こうなるんじゃないかと考えていたことでもあった。
「ごめんね。ベック。いままでありがとう。あなたのこと、もうどうでもよくなっちゃった」
いつかこんな日が来るのではないかと思っていた。だからシミュレーションは十分すぎるくらいに出来ていた。彼がわたしに飽きるのが早いか、それともわたしが彼に呆れるのが早いか。そうやっていつかはこの関係に終わりが来るとわかっていたはずだった。
それはナワバリの島へ上陸した日のことだった。
当然のように開かれた我ら赤髪海賊団を歓待する宴。およそ全クルーが参加しての宴席だった。そこにはいつも通り沢山の料理と酒とそれからとっておきの美女たちが並んでいた。船長、副船長に大幹部たち、彼らの周りにはひっきりなしに人が侍り酌をする。
この海賊団がナワバリを増やすにつれてこんな景色も随分見慣れたものになっていたし、自分の旦那が酌をされている程度で今更腹を立てるつもりはなかった。おおむねいつも通りだなと思ったわたしは彼らからは離れたカウンター席で静かにしっぽりと酒を楽しむつもりでいた。
「ねェ副船長さん」
けれどこれだけ離れていてもその甘ったるい声をわたしの耳は聞き拾ってしまう。ああいう声ってのはどうしてこうも聞き取りやすいのだろうか。そして低い声とはどうしてこうも聞き取りにくいのか。彼がなんと答えたのかは分からないけれど女の方がご機嫌な様子で弾んだ声を響かせるものだから、どうせプレイボーイぷりを発揮しているのだろうなと察せられた。甘い女の笑い声とそれに応えるらしい低く聞きなれた声。いつも通りと言えばそうだった。だから特別なにか普段との違いがあったわけじゃない。むしろ何もなかったというべきだろう。わたしの心はあっさりと決断を下した。
「もういっか」
零れ落ちた声は宴の喧騒にかき消さていく。けれどそれを拾いあげる声が彼女の背後からかかった。
〇
「なァーにがいっかだよ。しけた面ァしやがって」
誰に聞かせるつもりもなく呟いた彼女の静かな声を拾い上げたのは彼女の旦那ではなく、同じころに乗船したいわば同期だった。
「べつに。なんかもう飽きたっていうか呆れた? っていうのかな」
「なんだよあの人とうまくいってねェの? ついこの間まで浮かれてはしゃいでなかったか?」
「何年前の話してんのよ」
「おまえがまだピチピチだった頃?」
「いまでもピチピチですぅ」
唇を尖らせて文句を言うと同期はへーへーとあからさまに受けして自分のジョッキをぐびりと煽る。
「で、なにがもういっかなわけ」
聞き流されたかと思いきや話を戻され束の間逡巡する。
「それきく?」
「なんだよやめとくか? おれはどっちでもいいぜ」
彼女はこもる熱を吐き出すようにほうと吐息を漏らしてから話始めた。
「いやだとか、辛いとかじゃないの」
「へェ」
「ただなんて言ったらいいのかなァ。もうどうでもよくなっちゃって」
「どうでもねェ?」
同期はこちらの言葉を待っているらしい。はっきり言っちまえよと促されて、それまで明言を避けていた彼女はとうとう重い口を開く。
「あの人がね、わたしのことを忘れてもいいやって」
見えやしないが背後からは相変わらず談笑する声ばかり聞こえてくる。喉を鳴らすような彼の低く響く笑い声ときゃらきゃら笑う女の声。
「あァ? そこは別れたいとかそういう話じゃねェのかよ?」
心底理解できないといった表情で同期が唸る。
「別れたい、のかなァ」
「そんなのおれに聞くなよ。おまえがどうしたいかだろ」
自分がどうしたいか。言われて初めて彼女は自分の中にあった靄を形にしようと言葉を探す。
「うーん、きっとね別れるって言ったら一応それなりに気を遣ってくれる人だと思うの。一度は好きだなんだって間柄になったわけだし、それなりに筋は通してくれる人だから。でもそうやってわたしのことで彼を煩わせるのが嫌っていうのかな。もうわたしのこと考えてほしくないのかも」
例えばいまも隣に複数の美女を侍らせている彼だが、まさに今、こんな場面ではわたしのことを思い出してほしくないと思うようになってしまった。目の前の女の人に集中してわたしのことなんてすっかり忘れてしまっていればいいと思ってしまう。そう思うようになったのがいつからだったかなんてもう覚えちゃいない。
本当はただわたしが意気地なしなだけだ。別れようと切り出す覚悟も、わたしのことなんていらないんでしょって正面切って詰めるだけの胆力もない。どうしたってわたしはベックマンの前ではただの、弱いばっかりの女になってしまう。普段のわたしらしくもない弱気が顔をだす。
他の誰かと比べてほしくない。比べられたならきっとわたしはその誰かに負けてしまうから。それならいっそ比較対象外になってしまいたい。彼の意識の外にいたい。ただの女でもましてや恋人でもない、ただの一船員に。だから
「わたしのことなんて忘れてくれたらいいのに」
「ははァ重症だねどうも。どう拗らせたらそうなるんだかおれにゃ分からねェがよ。おまえはそれで本当にいいのかよ」
「いいんじゃない? 別に。っていうか今更でしょ。いつもわたしのことなんて忘れてお楽しみじゃない。むしろまだ別れようって言うだけの覚悟が決まらなくてごめんねっていうかさ」
「ハァ? んだよそれ意味わかんねェ。なんでお前が謝らなきゃならねェんだよ」
口にした謝罪の言葉に彼は声を荒げた。我がことのように憤慨して見せるその青年をみて「青いなァ」と感じてしまったのは無意識にわたしがあの人と比べてしまったせいだろうか。管を巻いては酒を呑み。呑んではまた管を巻く。それを繰り返すうちに彼女の夜は更けていく。
「だいたいあの人も毎度ガンつけるくらいなら一緒に呑んでやりゃいいのに……」
そうぼやく同期の声をおぼろげに聞きながら彼女の意識は夢の中へと迷いはじめていた。
いつまでも続くかのように思える宴の時間もしかし一人また一人とジョッキを煽る手を止めて顔面から突っ伏すようにして寝息をたてはじめる。なかには夜の街に消えていく者も。そうしてごく自然に喧騒は遠く夢の奥深くへと消えていった。
〇
「ったく無防備にも程があるだろう。こちとら気が気じゃないってのにお嬢は毎度呑気なもんだなァ」
抱き上げた彼女の頬にキスをしてベックマンは宿へと歩を進める。彼女を起こさない様に出来るだけ静かに。頬を撫でる夜風が心地いい。音の少なくなった夜更けの街を彼は歩く。愛しい女をその腕に閉じ込めて。
〇
「く……べ、く」
深夜とも早朝ともつかないそんな曖昧な時間、ベッドの中。耳元に届いたのはくぐもった彼女の呼び声。その声にうっすらと覚醒した男は靄のかかる思考のまま周囲の気配を探った。その結果として宿にいる人間たちと建物の外には酔って街角で眠りこけているクルー数名が見つけられた。つまり緊急事態などではなく彼女の寝言かと結論づけて彼女を抱き寄せる。すると愛らしい唇がまたなにかを訴えようと動く。
「も、いいよ、べっく」
そう告げた彼女の眉間には皺が寄っていた。
「……れても、いいんだよ。べっく」
夢の中で彼女はいったいどんな体験をしているのか。自分の名前がでてくるあたり夢の中でも彼女はおれと一緒にいるらしい。それならば、と彼女の耳元に口を寄せ囁いてみる。
「お嬢さん、なにがいいんだ。おれに教えてくれ」
「だからいいの……わすれてよ。べっくはやくわたしを忘れてね……」
その声が漏れるごとに眉間の皺を深くしたのは彼女もベックマンも同じだった。
〇
彼女を大切にしてきたつもりだった。彼女も自分を愛してくれている実感があった。けれど彼女の口から漏れ出たいまの言葉は。
「聞き間違い、じゃねェよなァ」
静かに寝息を立てる彼女の唇に触れる。やわくあたたかい。それはこれまでベックマンに幾度となく安心と幸福をもたらしてくれていたもの。こうすることでお互いの気持ちを伝えあうことさえできているように思っていた。少なくともベックマンはそう信じていた。
だが彼女の言葉から想像するに気持ちが十全に伝わっていなかったことは明白。今すぐにでも彼女に愛の限り伝えてやりたい。けれど彼女はいまだ夢の中。たたき起こして問答したところで好い結果など得られまい。その晩、ベックマンは彼女に寄り添って眠りについた。
〇
「おはようベック! ほらもう朝だよ起きよう」
その言葉に合わせて勢いよくカーテンを引く音と窓辺からは輝かしい陽光が飛び込んでくる。
「あァ……」
「ああじゃなくて! 朝だよベック」
ベックマンには深夜の出来事がまるで夢だったかのように思えた。彼女の晴れ晴れとした笑みには彼への愛情がにじんで見えた。
「愛してる」
口をついて出たのは陳腐な愛の告白。
「ふふ。わたしも愛してますよ。だから早く起きて。一緒にごはん食べよ」
返ってきたのはいつもの温かい愛の言葉。やはりそこに嘘偽りはないように思えた。いたって普段通りの彼女の様子にベックマンは安堵していた。
「ベック? まさか二日酔いなんて言わないでしょうね」
こちらに視線をよこした彼女にベックマンは笑って答える。
「お頭じゃあるめェしそこまでのんじゃいねェよ」
「ふうん」
起き上がって支度をしはじめたベックマンを横目に女は二人分の珈琲をいれた。いつ彼に別れを切り出すべきだろうかと。彼女のついたため息は彼の耳に届くことなく消えていく。身支度を終えた彼がマグカップを受け取るのを彼女は何食わぬ顔で見つめていた。
今朝一番にベックマンの口から届いた愛してるの言葉は彼女の心をすり抜けていった。昨日までならそこにどれだけの心がこもっているのだろうと考えもしたけれど、もうベックマンの愛を諦めきった彼女にはどうでもいいことだった。それでも愛していると返してしまったのはこれまでの付き合いで染みついてしまったから。と同時に彼への捨てきれない未練がそうさせるからだった。
彼への振り切れない思い。覚悟が決まるその時まではと彼女は愛を嘯く。あとすこしだけこの独りよがりな愛が許されますように。
〇
「さて、今日はどうする出かけるか?」
食後の一服にと煙草に火をつけたベックマンが尋ねる。
「そうねえ、とりあえず本屋にはいきたいかなァ。この島の書店品揃えがいいし」
「あァたしかに。新刊も古書もいい店が多いな」
「一服し終えたら行こうか」
彼は煙草を、わたしは食後の珈琲を。のんびりと一服を終えたわたしたちは温かい日差しを浴びて街へと繰り出した。晴れ渡る空のもとにでると自然と気分が上向く。隣を歩くベックマンとのデートは楽しくて幸せだった。このまま時間が止まればいいのに。けれど人生はそう甘くない。昼食を済ませて本屋巡りを再開しようかという時だった。
「副船長さんじゃない」
「うそ! ベックさんとこんなところで会えるなんて!」
いくつもの声が重なった。彼は綺麗で可愛い女性陣にあっという間に囲まれて、私との間に数歩分の距離ができる。
「ねェ、今夜も宴会でしょう? またベックさんのお話聞かせて」
「今夜はわたしたちのお店にも来てくださいよ」
「いっそ今からあそびに来ません? 開店前ですけどベックさんならママも大歓迎だろうし!」
「あ、ずるーい! ベックさんきょうはわたしがお隣座ってもいいでしょ? 約束しよ?」
そのうちの一つには聞き覚えがあった。昨夜ベックマンの隣で呑んでいた女だ。気分が急降下していく。と同時になすすべもなくただ立ちつくしている自分が馬鹿らしく思えた。
「ベック、先に戻っとくね。夕飯は……わたし約束があるし! ベックもこれから遊びでしょ。今日はここで解散ってことで、じゃあね」
彼に背を向けて走りだす。おい、とかなんとかって声が聞こえたけれど聞こえないふりをしてそのまま宿まで真っ直ぐ駆けた。彼が追いかけてくることはなかった。
置いて行かれたベックマンは走っていく彼女の背中を黙って見つめていた。デート中に女に絡まれても彼女がベックマンを放って置いていくなんて今まで一度もなかった。どんなに積極的な女に絡まれていても、ベックマンがやり過ごして戻ってくるのをいつも彼女は待っていた。だからベックマンは今もいつもどおり適当に話してから彼女のそばに戻るつもりでいた。そして何も心配はいらないと宥めすかして愛を囁く用意さえあった。
「ベックさんほらほら行きましょうよ」
両腕に絡みつく豊満な身体。彼女たちの唇からは甘ったるい声が聞こえくる。けれどベックマンはその場を動くことが出来なかった。走り去った彼女の表情を思い出す。明るくもなく暗くもない。いたって平然としていた。自分への執着が微塵も感じられなかった彼女のその表情はかえってベックマンを不安に駆りたてていた。
〇
買った本を部屋の隅に置いてからベッドに身を投げ出す。本当は夕飯の約束なんて誰ともしていない。
「よかった……」
彼が追ってこなかったことに安堵している自分がいた。これが正解だったのだとさえ思える。いまならきっと別れられる。そこには妙に確信めいたものがあった。結論が出てしまえばもう彼のことを考える必要はなかった。
「夕飯どこで食べようかな」
誰に言うでもなくのんびりと独り言をつぶやく。目を閉じて街のレストランを何軒かピックアップしていれば、ぐうと腹が鳴った。
夕食はやっぱり陸ならではの御馳走、お肉を食べたくなって街の中心部に位置する肉バルで食べることにした。ローストビーフにハンバーグ、チキンの丸焼きもあればポークチャップとバルというよりレストランじみた肉料理のメニューがずらりと並ぶ。どれにしようかなと指差して神様の言う通りに注文を決めた。それからやっぱりお酒も頼んだ。
温かい料理と程よく冷えた酒は彼女をあっという間に幸せにしてくれた。いい気分に浸って足取り軽やかに宿へと帰りつく。
そしてふわふわした幸せな気持ちのまま眠りについてしまおうと思っていた。そんな彼女に冷や水を浴びせかけたのは彼の声だった。
「よお、おかえり」
ゆったりとした動作で歩いてくるベックマンを前に思わず後ずさりした。けれど彼の太い腕は女の横をすり抜けて背後のドアノブへとのびる。
「あーえっと、べつに私のことなんて忘れて楽しんできてよかったのに……それともお姉さんたちにはふられちゃった?」
その言葉にベックマンは歯噛みした。あァやはり昨晩の彼女の言葉は真実だったのだと。
「愛してる女を忘れられるわけがねェ」
「いまのはええとその冗談で、なに本気になってるの。べっく? 顔、怖いよ」
なおも誤魔化そうとする彼女の言葉にベックマンは取り合わない。
「いいやおまえさんのそれは本心だ。いいんだ、わかってる。言いたいことがあるなら言えばいい」
不満でも文句でもなんでも言ってほしい、嫌なところがあるなら直す。だから言ってくれ、そしてもう二度と忘れろなんて言ってくれるな。そう願っての言葉だった。
「そっか……じゃあ正直に言う、ごめんねベック。いままでありがとう。あなたのこと、もうどうでもよくなっちゃったみたい。だからね、わたしたちもうお別れしよう。わたしのことなんて、忘れてよ」
愛に満ちた表情で彼女は別れを告げた。
それが本心なのかベックマンには判別できなかった。彼女が忘れてほしいと願っていることは心ならずも理解はした。けれど別れを告げる彼女にはまだ己への愛情があるように思えてならなかった。愛しい女の愛を告げる表情を見間違えるはずがない。
彼女はおれをいまもきっと愛している。けれど同時に忘れろと言う。どうすればいいのか。プレイボーイと名高いベックマンにもこればかりは分からなかった。だが、ベックマンの身体は反射的に動き始める。彼女のしなやかな腕に手を伸ばしていた。
「触らないで」
行き場をなくした手は宙に浮いたまま彼らしくない間抜けな姿を晒した。
彼女の心は揺らぎかけていた。いま手を取られたら簡単に絆されてしまいそうだった。だから触らないでほしかった。
まだ手を伸ばすだけの愛情がそこにあったんだと実感して彼女は微笑む。それだけで少し報われたような気がして。それだけで十分だった。
「いままでずっとありがとう、さようなら」
二度目の別れの言葉。追いすがる手はもうなかった。
諦念(前編)
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